日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】:4ページ目
発掘調査によると、墳丘の中央部には天井・四壁・床面ともに全面に白く漆喰が塗られた横口石槨があり、盗掘はされているものの漆塗木棺の破片、金銅製太刀金具などが見つかっています。
埋葬施設や副葬品などをみると同じ聖なるゾーンに存在し、壁画古墳として有名なキトラ古墳、高松塚古墳と非常によく似ており、どの古墳も天武あるいは天智の皇子クラスの被葬者が想定され、しかもこの3つの古墳は連続して造られた可能性が高いと考えられているのです。
ちなみに墳丘の大きさは、マルコ山が約24m、高松塚が約20m、キトラが約14mで、同時期に築造された古墳であれば、その規模は通常、被葬者の地位や功績に相応しいものとなります。すなわち、規模の順に被葬者を考えると、マルコ山古墳→高松塚古墳→キトラ古墳の順番となるのです。
草壁皇子は皇太子の地位で薨御しましたが、実質上は天皇と見なされ八角形墳に葬られました。これは間違いなく、持統天皇の強い意思の表われでしょう。
そして、マルコ山古墳が天皇墓の八角形に準じる六角形をなすのは、持統による被葬者への評価がこの墳形に反映しているものとも想定されます。
そうなると草壁が永眠する束明神古墳の北に築造されたマルコ山古墳は、持統の期待によく応え、その政権に貢献した高市皇子の奥津城と推定できるのです。
マルコ山古墳から発見された人骨は30~40歳の壮年男子と推測されます。これは高市の没年齢42歳とほぼ一致します。
また、マルコ山古墳の漆喰で白く塗られた石室には、高松塚やキトラのような壁画は描かれていませんでした。なぜ、マルコ山にだけ壁画が描かれなかったのは謎とされています。
しかしどうでしょう。真っ白な空間の中で永遠の眠りにつく高市皇子の姿を想像してみてください。この純白な空間こそ、高市の人柄に相応しい奥津城と思いませんか。
インバウンドを始め多くの観光客で賑わう奈良県ですが、十市皇女が眠る比賣神社も、高市皇子が眠るマルコ山古墳も、訪れる観光客はほとんどいません。
それだけに、そこに佇めば心静かに純愛を貫いた2人の皇女・皇子に思いを馳せることができます。
奈良県に出向いた時は、ぜひ2人の面影を偲びつつ、高畑と少し距離はありますが飛鳥に出向いて2人の奥津城に手を合わせていただければと願います。
※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月


