「大河べらぼう」吉原の遊女とは対照的な最下級の娼婦…たった350円で春を売る「夜鷹」の実態とは?【前編】:3ページ目
どんな女性が夜鷹になったのか
江戸時代においては、男女ともに平均寿命が30歳を下回っており、そのため「人生五十年」といわれていました。当時は、40〜60歳の女性がすでに「老婆」と見なされても不思議ではない年齢だったのです。
前述のとおり、夜鷹にはこうした年増の女性が多く見られました。彼女たちは吉原から岡場所へと流れ、そこでも生計が立てられなくなると、糊口をしのぐためにやむなく路上に立つ夜鷹となった者が多かったようです。
中には、夫を亡くして生活に困窮した未亡人や、浪人の妻や娘もいたといいます。
そうした夜鷹たちは、江戸の街が夕闇に包まれる頃、どこからともなく現れ、屋外の物陰などで、地面に敷いた茣蓙(ござ)の上で男性と交渉しました。
ところが、客の中には悪質な男もおり、行為が終わると揚代を払わずに逃げる無銭遊行の者が続出したのです。
薄利多売を旨とする夜鷹にとって、これはたまったものではありません。
そのため、ボディガードと客引きを兼ねた男と協力して商売を行うようになり、これが後の「ヒモ」へとつながっていきます。
第5回の「蔦に唐丸因果の蔓」で、歌麿(唐丸)が飛び掛かり、ともに川に落ちていった浪人が彼の母のヒモであったのです。
こうした背景もあり、時代とともに空き地に掘っ立て小屋を建て、草蓙(そうざ)で囲んで商売をしたり、自宅に客を呼び込む「座り夜鷹」と呼ばれる娼婦も現れるようになりました。
言い方は妙ですが、時の経過とともに夜鷹も多様化していったのです。それほどまでに、江戸の町は娼婦なしでは夜が明けないという状況であったといっても過言ではないでしょう。
【前編】はここまで。【後編】では夜鷹と江戸庶民が織り成す逸話について紹介しましょう。
【後編】の記事はこちら↓
大河「べらぼう」たった350円で春を売る…喜多川歌麿(染谷翔太)の鬼畜母が生業とした「夜鷹」の実態とは?【後編】
※参考文献:樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』ごま書房新社

