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政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】

政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】:3ページ目

二条城での会見が家康に危機感を与えた

1605年4月12日、結婚からわずか2年目にして、徳川と豊臣の関係に不穏な兆しが生じます。豊臣秀頼が内大臣から右大臣へと昇進したのです。これを受けて、4日後の4月16日、家康は将軍職を千姫の父・秀忠に譲り、徳川家が将軍職を世襲することを天下に示しました。

しかし、秀忠は征夷大将軍に任じられたものの、官位は正二位内大臣にとどまり、正二位右大臣の秀頼には及びませんでした。

それでも、武家の頂点である将軍となった秀忠の権威を示すため、家康は高台院(おね・北政所)を通じて、秀頼に秀忠のいる伏見城へ出向くよう要請します。

ところが、これに対し淀殿は態度を硬化させ、徳川と豊臣の関係はさらに悪化していくのです。

この後、将軍職を退いた家康は大御所として駿府に在住。江戸の秀忠と協力して二元政治を行います。それは、秀忠が徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当するというものでした。

こうして諸大名を管理・監督しながら、秀忠は将軍就任と同時に将軍親衛隊として書院番・小姓組を創設し、軍事力の強化を図ります。

また、1610年には三河国で4万人を動員する大規模な巻狩りを行い、将軍の権威を示すなど、着々と幕藩体制の構築を進めていきます。

そして翌年の1611年、ついに家康と秀頼の面会が実現する日が訪れます。この年の3月、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位した際、その即位に際して上洛した家康は、二条城での秀頼との会見を要請しました。

ただし、この当時も朝廷は秀頼を摂家豊臣家の後継者と見なしており、豊臣家中では、家康との会見が徳川家への臣従につながりかねないとして、反対する声も多かったといいます。

しかし、徳川家の実力を認めていた加藤清正や浅野幸長ら、豊臣家恩顧の大名たちの取り成しもあり、会見はついに実現しました。

3月28日、二条城に到着した秀頼を、家康は庭上まで出向き迎えました。これよりは「互いの御礼あるべし」と、対等の礼をしようと提案する家康に対し、秀頼は固辞したのです。

秀頼は、淀殿とは異なり、現在の豊臣家の立場をよくわきまえていたのでしょう。相手は自分よりはるかに年長で、官位も上。しかも、愛する妻・千姫の祖父、すなわち大舅にあたる人物です。

もしかしたら、普段から家康の人となりを千姫が秀忠に伝えていた可能性もあるでしょう。こうして、家康が上座につく形での会見となりました。

その後、秀頼は豊国社を参詣し、大坂城へと戻りました。大坂や京都では、公家・武士・庶民を問わず、この会見が無事に終わったことを喜んだと伝えられています。

しかし、この二条城での会見が、家康に豊臣家討伐を決意させるきっかけとなった、という説があります。

それは、小柄だった秀吉の子でありながら、180cmを超える堂々たる体躯を持ち、物事に動じることのない、気品あふれる見事な立ち居振る舞いを見せた秀頼の姿にありました。付き従っていた豊臣恩顧の大名たちも、彼に憧憬の眼差しを向けていたといいます。

そのように立派に成長した秀頼の姿を目の当たりにして、家康は彼を徳川家にとって極めて危険な存在と見なしたのでしょう。その懸念は、会見直後に「三ヶ条の条書」と呼ばれる大名誓紙を、豊臣家を除くすべての大名から提出させたことにも表れているのです。

そして、夫・秀頼と祖父・家康の二条城での会見は、千姫にとって人生最初の悲劇へと巻き込まれていくきっかけとなった、といえるのではないでしょうか。

それでは[前編]はここまで。[中編]では、大坂の陣での千姫と秀頼の別れをお話ししましょう。

【中編】の記事はこちら↓

政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】

江戸幕府を開いた徳川家康の孫であり、第2代将軍・徳川秀忠の長女である「千姫(せんひめ)」は、時代の波に翻弄されながら、激動の江戸初期を生きた悲劇のヒロインとして語られることが多い人物です。[c…

※参考文献:福田千鶴著 『豊臣秀頼』 吉川弘文館

 

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