政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】:2ページ目
仲睦まじかった千姫と秀頼
1603年7月28日、大坂城において、11歳の豊臣秀頼と7歳の千姫の婚礼の儀が執り行われました。この日取りは、千姫に付き添って上洛した母・江(ごう)と、淀殿が相談して決めたものとされています。
この二人は、浅井長政と織田信長の妹・市(いち)を母に持つ、実の姉妹です。長女が淀殿(茶々/ちゃちゃ)、次女が初(はつ)、三女が江でした。
三姉妹は、浅井家滅亡後に母・市とともに、再婚先の柴田勝家のもと越前北ノ庄城(現在の福井市)に身を寄せていましたが、やがて勝家も豊臣秀吉によって滅ぼされ、その後は秀吉の庇護を受けて育ちました。
茶々は秀吉の側室となり、初は京極高次に嫁ぎました。江は二度の結婚で夫と死別した後、徳川家康の後継者・徳川秀忠の正室となります。
江にとって、愛娘・千姫を、いつ敵対することになるかも知れない豊臣家へ嫁がせるのは、さぞかし心配だったことでしょう。しかし、江はこのとき伏見城に留まり、大坂城まで付き添っていません。そこには、江が抱えていた複雑な心境が伺えます。
もともと未亡人となった江を秀忠と結びつけたのは秀吉であり、徳川家との関係を強化しようという思惑がありました。しかし、今や徳川将軍家の世継ぎの正室として重きをなす江には、武家の女性としての覚悟があったのではないでしょうか。
そのような江の懸念は、15年後の大坂の陣における豊臣家の滅亡によって現実のものとなります。しかし、秀頼と千姫の夫婦仲は睦まじかったようです。
千姫が16歳を迎えた際、女子の成人のしるしである鬢の先を切る鬢削(びんそぎ)の儀式を、秀頼自らが執り行ったことを侍女が目撃していたことからも、それは確かなことであったといえるでしょう。

