
政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【中編】
江戸幕府を開いた徳川家康の孫であり、第2代将軍・徳川秀忠の長女である「千姫(せんひめ)」は、時代の波に翻弄されながら、激動の江戸初期を生きた悲劇のヒロインとして語られることが多い人物です。
しかし、史実の「千姫」は、弟の第3代将軍・家光を支え、徳川家の礎を築くために力を尽くした女性でした。
今回は、そのような「千姫」のドラマチックな生涯を、[前編][中編][後編]の3回に分けて紹介します。[中編]は、大坂の陣における豊臣家の滅亡と千姫についてお話ししましょう。
[前編]の記事はこちら↓
政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】
家康の挑発にのった豊臣家に危機が訪れる
1614年9月、徳川家康はついに豊臣家討伐を決定し、諸大名に大坂への出陣を命じます。一方、豊臣方もこれに対抗するため、関ヶ原の戦いで没落した旧大名や武士を中心に牢人たちを集め、彼らは続々と大坂城に入りました。
徳川幕府を盤石な政権としたい家康にとって、関ヶ原の戦いによって摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する65万石の一大名に転落したとはいえ、豊臣秀頼の存在はやはり脅威そのものでした。
千姫を秀頼に嫁がせた頃には、家康がまだ豊臣家との共存を考えていた可能性が高かったようです。しかしその後、淀殿の家康に対する不信感はますます強まっていきました。
そして1614年8月、方広寺鐘銘事件が起こります。この事件は、方広寺大仏の大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文に、家康が難癖をつけたことが注目されますが、事の発端はそれだけではありませんでした。
方広寺で大仏開眼供養会の実施が決定すると、南光坊天海が供養会で天台宗の僧侶を上座の左班とするよう豊臣方に申し入れ、家康は大仏の開眼供養と堂供養を同時に行うことに難色を示します。
これに対し、豊臣家宿老の片桐且元は駿府城に赴き、開眼供養と堂供養を午前と午後に分けて実施することを家康に提案しました。しかし、金地院崇伝は家康の意向を踏まえ、2日に分けるべきだと主張します。
その後、家康は大仏鐘銘に記された「国家安康」の4文字について、「家」と「康」の二文字が意図的に分けられており、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を祝う内容であると不快感を示しました。
慌てた豊臣方は、この問題を解決するため、急ぎ且元を家康のもとへ派遣しますが、家康は且元との面会を拒絶。且元は、対応した本多正純と崇伝に対し、秀頼が家康・秀忠に反逆の意思がない旨の起請文を提出すると申し出ますが、家康はこの提案を拒否します。
困惑した且元は、9月18日、「秀頼が大坂を離れて江戸に参勤すること」「淀殿が人質として江戸に赴くこと」、それでも許しが得られない場合は「秀頼が大坂城を退去し国替えすること」の3つの条件を提示し、事態の収拾を図ろうとしました。
しかし、この解決策を聞いて激怒したのは、ほかならぬ且元の主人である淀殿でした。淀殿は且元が豊臣家を裏切ったと考え、大坂城中では且元討伐の動きが強まり、且元は徳川方へと奔ります。
この一件は、家康が天海や崇伝を使って豊臣方を翻弄した結果、その誘いに乗った豊臣方が暴発し、それがついに徳川と豊臣の全面対決となる大坂の陣へと発展したのです。