
室町時代、足利義満に「皇位簒奪」の野心はなかった!?では義満の本当の野心とは何だったのか?
「皇位簒奪」の野望は皆無
室町幕府3代将軍・足利義満が、室町時代の全盛期を作りあげたという点に間違いはありません。
何と言っても、京都と吉野(奈良)の南北に分裂した朝廷を統一し、不安定な政治状況に終止符を打った立役者です。
また外交では、中国(明)との貿易を日本国王の称号のもとに再開。一方、自身の権勢を知らしめるために建てられた金閣寺(鹿苑寺)は、それ自体が室町文化の象徴として今に伝わっています。
これらの業績のスケールの大きさから、義満は天皇の地位すら奪おうとしていたとする皇位(王権)簒奪説が一世を風靡したことがあります。
足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【前編】
足利義満の登場源頼朝が鎌倉幕府を開き、武家政権が成立すると、政治や軍事の実権は幕府が握りました。結果、朝廷や天皇の権威は弱体化し、その傾向は室町時代に入ると著しくなります。その動きの中心と…
自らは譲位し、天皇を示す「太上天皇」の称号を得て、息子・義嗣を即位させる――。古くから提唱されたこの説が、1990年代に刊行された複数の著書でも取り上げられ、再び注目を集めたことは記憶に新しいところです。
現在でも、俗説レベルではこの説が広く浸透していると言ってもいいでしょう。
ただ、近年相次いで刊行された義満の評伝は、彼の皇位への野望を否定しています。中世社会において、武家はもとより臣下が天皇を自称する可能性は皆無だと述べる研究者もいます。
天皇制を絶対視する当時の原則から、義満も逸脱はしていませんでした。現在は、晩年の義満が掌握した権力をどのように評価すべきか、改めて冷静に考察すべき段階だと言えるでしょう。