軍部暴走の元凶、稀代の戦略家…日本陸軍のカリスマ軍人・石原莞爾とは何者だったのか?:3ページ目
挫折と失脚
しかし、実際には関東軍が満洲国のすべての実権を握り、石原の理想とはかけ離れた状況になっていきます。
「世界最終戦争論」はその後の東西冷戦を予言したもので、石原が満洲事変を起こしたのは、のちに予想される対米戦に対して、東アジアにおける経済圏の強化を目指したからでもありました。
対中強硬派のイメージがあるかも知れませんが、1937年の盧溝橋事件に端を発する日華事変(日中戦争)には反対の立場を取り、東亜連盟の樹立を目指しています。
しかし、日中戦争の戦線不拡大を唱えたものの、現地参謀であり拡大派でもあった武藤章に一蹴されてしまいます。
37年9月、関東軍参謀副長として再び満洲に赴任しましたが、参謀長の東條英機と対立。ここで失脚したことで出世の道を閉ざされ、41年に予備役へ編入されました。
彼が目指したのは満洲全体の領有でしたが、実際には中途半端な親日国家樹立にとどまり、その後の日中戦争を阻止することもできなかったのです。
石原はまた、太平洋戦争については早くから敗戦を予期していました。故郷の山形県鶴岡に戻って著述や講演活動を行い、東條を厳しく非難し続けています。彼は一貫して自らの頭脳と信念を貫いた人物と言えるでしょう。
満洲事変の首謀者であるものの戦犯には指定されず、極東国際軍事裁判(東京裁判)では証人として山形県酒田の出張法廷に出廷しています。
その後、「最終戦争論」に描かれたように、アメリカ・ヨーロッパ対ソ連・中国という対立構造は鮮明化し、朝鮮戦争へとつながっていきました。
関東軍参謀として満洲事変を引き起こした石原は、稀代の戦略家として語られることが多い一方で、「軍部暴走の元凶」という批判的な評価もあります。
参考資料:別冊宝島編集部『日本の軍人 伝説の指揮官に学ぶリーダーの条件』(2024)
画像:photoAC,Wikipedia
