
軍部暴走の元凶、稀代の戦略家…日本陸軍のカリスマ軍人・石原莞爾とは何者だったのか?:2ページ目
満州領有による戦略
このように満蒙の領有を唱える石原の持論は、28年に彼が関東軍の参謀になったことで実現に近づきました。
当時の満蒙は中国の主権下にあり、同地域の権益をめぐって日本と中国が対立関係にありました。石原は関東軍による満蒙領有計画を立案し、高級参謀の板垣征四郎とともに準備を進めます。
そして31年9月18日、関東軍は柳条湖事件をきっかけに奉天、長春、営口などの都市を占領。そこへ独断越境した朝鮮軍も加わり、錦州を爆撃しました。
陸軍中央や政府の不拡大方針を無視するかたちで戦線は拡大していき、32年2月には満洲全土をほぼ占領します。
翌月、愛新覚羅溥儀を皇帝とする満洲国が成立し、「王道楽土」「五族協和」がスローガンに掲げられました。「五族」は日本人、満洲人、漢人、モンゴル人、朝鮮人のことで、ここで最終戦争である日米決戦に向けての第一段階をクリアしたのです。
石原は民族協和による統治を構想し、満洲国協和会が関東軍から自立して国家をけん引することを望んでいました。