
【大河べらぼう】蔦重とのコラボにネット歓喜!朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのり)とは何者なのか?:3ページ目
寛政の改革を批判してお叱り?
とまぁこんな具合にお江戸を賑わせていた平沢常富ですが、田沼意次から松平定信に政権が移り変わると、何だか息苦しくなってまいりました。
いわゆる寛政の改革(質素倹約・文武奨励政策)が推し進められる中、これを風刺する黄表紙『文武二道万石通』を執筆します。
言わなきゃいいのに、言わずにはいられなかったのでしょうね。
かくして天明8年(1788年)、主君である久保田藩主・佐竹義和からお叱りを受けたそうで、平沢常富は戯作者を引退。以後はもっぱら狂歌師として活躍しました。
そして文化10年(1813年)5月20日、79歳で生涯に幕を下ろします。
戒名は法性院月成日明居士(ほっしょういん げっせいにちみょうこじ)、東京都江東区三好にある一乗院に眠っているそうです。
終わりに
江戸在住の“外交官”であり当代一の“覆面”戯作者
出羽国久保田藩(秋田藩)の藩士で、江戸城の留守居(いまでいう外交官)を務める。役職柄、情報交換の場として吉原に出入りすることが多く、「宝暦の色男」の異名をもつ。
一方で、奇想天外な大人の童話、歌舞伎の筋書きをもじったパロディーなど洒落、滑稽、ナンセンスを盛り込んだ戯作を数多く発表し、また手柄岡持(てがらのおかもち)という名で狂歌も発表。流行作家として一時代を築く。のちに蔦重(横浜流星)にとって最高かつ最大の協力者となる戯作者。※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
今回は江戸時代に活躍した平沢常富を紹介してきました。
果たしてその才能が蔦重との出会いでどんな化学反応を起こすのか、これからも楽しみですね!
※参考文献:
- 『三百藩家臣人名事典1』新人物往来社、1987年11月