
ほとんどの守護大名が「戦国大名」になれなかったのはなぜ?両者を分かつものは何だったのか
戦国大名の定義
室町時代は、各地に守護大名と呼ばれる大名たちがいました。しかし、彼らの全てがいわゆる戦国大名になれたわけではありません。それはなぜなのか、理由を探っていきます。
まずはそもそも守護大名と戦国大名の違いですが、最も大きな違いは幕府からの自立を志向していたかどうかです。自立心があったかどうか、ということですね。
また守護大名は、室町幕府の権威を利用する形で領国を支配していましたが、戦国大名は室町幕府からの自立を図るために自ら田畑の面積と収穫量を調査し(検地)、年貢を決定していました。
もともと、こうした調査は土地の所有者が自発的に調査結果を報告するだけのものでした。しかし戦国大名の場合、家臣が奉行として直接調査していました。
こうした、幕府の権威によらず領国を支配しようとする傾向は、法制の面でも見てとれます。戦国大名は、領国内のみ通用する分国法を定めていました。
分国法という言葉は教科書で学んだ人も多いでしょう。室町幕府は全国に適用する法を制定していましたが、戦国大名はそれを否定し、自ら制定した分国法に基づいて領国を支配しようとしたのです。
そしてこの分国法は、家臣に適用されたばかりでなく大名自身も遵守しました。権力者による強権的な支配ではなく、法治国家としての統治をめざしたのです。