ほとんどの守護大名が「戦国大名」になれなかったのはなぜ?両者を分かつものは何だったのか:3ページ目
形式的な権力者
守護の多くは足利一門かそれに準じる有力家臣だったため、守護であると同時に幕府の要職にも就いていました。
つまり、地方の領主的存在でありながら、中央政権にも参画していたということです。
現代に例えて言えば、県知事が国会議員や大臣を兼務していて、普段は東京にいるようなものでしょう。
地域の統治者であるはずの守護がほとんど領地にいなかったということは、実質的な権力を握るのはその留守を守る守護代です。
この守護代が、守護にとってかわり、戦国大名になるケースが多かったのです。
さらに、守護代の臣下である武士集団のなかから頭角を現し、守護代を倒して戦国大名になった者もいます。
形式的な権力者にすぎなかった守護は、幕府の権威が失墜して秩序が乱れると、実質的な力をたちまち失ったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
