高き理想と強固な決意!「新選組」始まりのきっかけを作った幕末の志士・清河八郎の知られざる一面とは?:3ページ目
幕府を唆し浪士隊結成も…
話は戻ります。1863年、幕府のお墨付きを得て、清河主導で浪士隊が結成。ここに、その後の新撰組メンバーも加入。上洛の将軍を警護するという名目で出発します。
しかし隊列に清河の姿はなく、彼は京都に先回りしていたのです。
そして2月23日、京都に到着した浪士隊の前に姿を現した清河は「京都に来た本当の目的は幕府のためではなく、尊王攘夷のためであり、朝廷に我らの意思を上奏する」とつげて、呆気に取られているうちに隊士たちから誓約書の血判書をもらい、翌日の24日には朝廷に提出するという早業をみせます。
(このあとは歴史好きなら存知のとおり、近藤らが異を唱えて離脱、自分たちで「壬生浪士組」を結成することとなり、のちに新選組になります)。
清河八郎の最期
2月30日には「関東に下り、攘夷を決行せよ」と朝廷から勅諚がくだります。
慌てた幕府も時すでに遅し。3月13日には清河と200人あまりの隊士は江戸へ向かいます。
清河の頭には「5月10日に横浜の外国人居留地を襲撃、そのあと小田原城を占拠し幕府打倒の拠点にする」という構想があったとか。
しかし裏切られた幕府も放置するわけはありません。
清河は4月13日、幕府の見廻組に路上で暗殺されました。享年34歳。そのときは同志の宅からの帰りで、酒に酔っていてなおかつ風邪をひいていたといいます。
このように振り返ると、江戸市中で何度も倒幕活動をしていたのに、江戸市中で酒に酔って一人夜道を歩くなど、あまりに無防備だと思ってしまいますね。
朝廷の勅諚を得た自分を殺すわけがない、という過信があったのでしょうか。自分の理想が正しいと思うばかりに、人心掌握には長けていなかったのかもしれませんね。
しかし34歳で江戸・京都を駆けずり回り、志士を300人も手なずけて朝廷や幕府に働きかけるなど、強固な決意と理想がなければ叶うはずもありません。とても「熱い」武士の一人だったことは確かです。
参考:『新撰組興亡史』