高き理想と強固な決意!「新選組」始まりのきっかけを作った幕末の志士・清河八郎の知られざる一面とは?:2ページ目
清河、京都で挙兵すんでだった
そのあと清河は全国を遊説して、文久元年(1861年)の32歳のときに九州を訪れ、薩摩藩が千人近くの兵を京都に送るという情報を得ます。
清河は、この薩摩藩の動きに呼応し、京都で全国の志士に呼びかけて300人を京都に集めます。
「近日中、義旗を相翻し回天の一番乗り仕るべく心底にござ候」
(我こそが回天の一番乗り、世の中を変える先駆けとなる)
と意気込んでいましたが、京都に潜伏してた薩摩藩の志士たちが検挙され粛清されてしまい(寺田屋事件)、またも計画は頓挫します。
清河は失意のまま江戸に戻りますが、そこであの奇想天外な策を思いつきます。幕府に「身分を問わず優秀な者を集めて、浪士隊を結成し、治安維持に努める時である」という建言書を出すのです。
幕府にとっても市中にあぶれた浪士をまとめて監督できるし、自らの手を汚さなくてもいいということで、この意見は見事に通り、募集にあたっては大赦までしてくれるということで、清河は獄中の同志の解放にも成功します。
愛妻家の一面も
しかしその中には愛妻・蓮の姿はありませんでした。
江戸で事件を起こした時に、妻の蓮もとらわれて清河の居所を聞き出すために激しい拷問を受け、そのままはしかにかかり死んでいたのです。
清河は蓮が囚われたときに妻をおもいやって、「妻がいかに苦労しているかはよくわかっている。どうか自分が成功する日を待っていて欲しい」という詩を読んでいました。蓮の死に落胆した清河は、かつて遊女との結婚に大反対された自分の両親に「わが子のように思って供養を」と頼み込んでいます。
そもそも蓮とは遊郭での酒宴中にであったようです。遊びでばらまいたお金に目もくれない蓮の毅然とした態度に惚れこみ、何度かラブレターを送っています。
その中には「あなたさえ心変わりしなければ自分は絶対見捨てたりしない。しかし、私に嫁ぐと苦労を掛けるかもしれないから、農家や町人に嫁いだほうが安心して暮らせるだろう。よく考えて決断して欲しい」という細やかな一面もみせています。