実は出世できるはずがなかった井伊直弼…彼はいかにして巨大な権力を持つ地位へ上り詰めたか?
「十四男」という立場
井伊直弼といえば、徳川幕府の大老として、日米修好通商条約を調印した人物としてよく知られています。
さらにその後、安政の大獄と呼ばれる条約反対派への大弾圧を行ったことで、後世に悪名を刻んでしまった人物でもあります。
ちょっと待って!江戸時代「安政の大獄」は本当に大弾圧だったのか?井伊直弼の本当の目的と後世の誤解
「安政の大獄」の真の目的皆さんは、幕末期に行われた「安政の大獄」と言えばどのようなイメージを持っているでしょうか。多くの人は、当時の幕府の家老だった井伊直弼(いいなおすけ)が、その権限を利用して尊…
安政の大獄によって彼は反対派の憤激を買い、桜田門外の変で暗殺されました。
そんな直弼は、幕末の日本にあって、一時は巨大な権力を握っていたのですが、実は本来なら大老どころか、藩主にもなれるはずのない人物だったのです。今回はそんな彼の足跡をたどってみましょう。
直弼は、十一代彦根藩主・井伊直中の十四男坊として生まれました。
これだけ後の方の子供となると藩主となる望みはあまりに薄く、その待遇は藩主の息子としては最低のものだったとされています。
十七歳のときには、彦根城外に小さな屋敷と三〇〇石の捨て扶持を与えられて、静かに暮らしていました。
最後の跡取り
当時、大名家で嫡男以外が一発逆転を狙うには、他の大名家の養子になるしかありませんでした。
跡取りのいない大名家の養子になれば、その大名家の跡取りになれます。しかし、十四男である直弼にはその口もありませんでした。不遇の身分だったと言ってもいいでしょう。
そんな冷や飯食いの生活が一転するのは、二十歳のときのことです。跡継ぎである世子・直元が病死したのです。
そのとき、直弼の兄たちはすべて他家へ養子に出ており、井伊家には直弼しか残っていませんでした。そこで直弼は、藩主だった兄・直亮の養子となり、井伊家の跡取りとなったのです。
その後、直弼は直亮からイジメを受けましたが、そこは耐えるしかありませんでした。耐えれば、藩主の座が待っているからです。
そして直弼三十五歳のときに直亮が死去、ついに十四男坊が彦根の藩主の座へと就くことになったのです。
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