険悪な関係ではなかった家康・三成
関ヶ原の戦いに至るまでの経緯については、豊臣秀吉亡き後の豊臣家維持に奔走する石田三成が、野心をあらわにする徳川家康と感情的に対立し、ついに対決することになった――という感じでイメージしている人も多いと思います。
こうした展開はドラマや小説ではおなじみのものです。しかし史実はそんなにドラマチックではなく、もっと地味で退屈なものでした。両者は特段親しいわけではないものの、表面上は無難なつきあいをしていたのです。
今回は前編と後編に分けて、こうした徳川家康と石田三成の人間関係に関する誤解について見ていきましょう。
※あわせて読みたい
関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】
1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。西軍の中心人物であった「石田三成」は敗戦により捕らえられ六条河原で斬首された。石田一族の多くはこの戦いで討死しているが、三成の6人の子供たちは生き長らえている。…
例えば慶長4年(1599)9月に家康が大坂へ赴いたとき、三成は自分と兄の邸宅を宿代わりに提供しています。また、前田利長が家康暗殺を企てているという疑惑が浮上すると、三成は徳川に護衛用の兵を送っているのです。
また家康の方も、三成が豊臣恩顧の武将との諍いで謹慎すると、彼の息子である重家を登用して豊臣政権内のバランスをとっています。
両者とも事を荒立てたくなかっただけかも知れません。しかし感情的に対立していたのなら、わざわざ互いを庇うことはしないでしょう。