脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【前編】:2ページ目
2ページ目: 1 2
ターゲットは三成だけではなかった
そもそも家康が企んでいたのは、豊臣政権の実力者たちを排除することであり、個人攻撃ではありませんでした。
石田三成は豊臣政権の政務を担う奉行衆の筆頭格であり、個人的な感情の有無にかかわらず家康が排除を目論むのは当然の成り行きでしょう。
実際、三成失脚後は前田利長を暗殺未遂疑惑で、さらに宇喜多秀家も家中の騒動を原因に排斥しています。奉行衆だった浅野長政は謹慎させられ、さらには大老上杉家にも難癖をつけるなど、家康は逆らう可能性のある有力者を次々と排除していきました。
それでも三成ばかりが家康と険悪だったと思われがちなのは、三成が関ヶ原の戦いで西軍を実質的に指揮したことが一因でしょう。
しかし、家康と光成が感情的な対立関係にあったというイメージは江戸時代の創作物に基づいています。当時は両者のそうした対立があたかも存在していたように記す書籍が刊行され、そのイメージが補強されていったのです。
【後編】では、三成が上杉景勝と盟約を結んで家康を討とうとしたという共謀説に関する誤解を取り上げます。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
ページ: 1 2