遣唐使の廃止と国風文化の発展は関係ない?「894(ハクシ)に戻す遣唐使」は現代の通説ではない【後編】:2ページ目
ずっとストップしていた遣唐使
実際、894年以降も唐との交流が途絶えたわけではありません。例えば、896(寛平8)年に宇多天皇は中国人を招いて面談しています。
また、菅原道真も遣唐使の役割を解かれておらず、897(寛平9)年の段階でもまだ遺唐大使の役職ですし、遣唐副使の紀長谷雄に至っては901年でも任を解かれていません。
こうした事実から導き出される結論は、次の通りです。
菅原道真は894年に、遣唐使は停止すべきだという意見をしました。
そして、それについては長々と検討されたものの、結局907 (延喜7)年に唐が滅亡したため遣唐使は再開されないままに終わったのです。
しかもそれ以前にも、既に56年もの間、遣唐使の派遣が行われていなかったのは【前編】で説明した通りです。
ここまで見ていくと、「894年に遣唐使が廃止されて中国文化が輸入されなくなり、独自の日本文化である国風文化が育つことになった」という従来の説が怪しくなってくるのが分かるでしょう。
もともと、遣唐使というイベントは894年以前からストップしており、それ以降もなんとなく行われないまま、イベント自体が断ち消えになってしまったのです。