芸者から総理大臣の愛妾に、その後事件で尼僧となった明治時代の麗しき女性・お鯉(安藤照子)
江戸時代の末から明治時代にかけては、カメラ・写真が普及した時期でもありました。そのおかげで、現代に生きる私たちも、当時の人々の様子をよりリアルに知ることができるようになっています。
そんな当時の写真が残っている人物の一人に、お鯉(安藤照子)という女性がいます。今回の記事では、そんなお鯉の姿に迫ってみたいと思います。
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14歳で芸者になり花柳界へ
照子は、明治13年に四谷見附の漆問屋に生まれました。生家が没落し、6歳で新宿の引き手茶屋・安藤家の養子となります。
しかし、安藤家も家が傾き、照子は14歳で新橋の芸者となり、花柳界入りします。
歌舞伎役者と結婚も、すぐに離婚、そして大物政治家の愛妾に
照子はその後、歌舞伎役者の市村羽左衛門と結婚しますが、まもなく離婚し、再度芸者に戻ります。そして、24歳ごろに人生の転機が訪れます。元老山県有朋の紹介により、桂太郎の愛妾となったのです。
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このとき照子は桂に対して「遊びではなく、生涯大事にしてくれないのであれば嫌だ」と言ったと言われており、桂はその気風の良さに惚れたとも言われています。
また、病気がちであった桂の妻に代わり、桂の世話をしました。ちなみに、当時桂は内閣総理大臣であり、その官邸内には「お鯉の間」がもうけられたといいます。
なお、桂はこの当時を含めて合計3回も総理大臣の職についてますから、その立場の高さが伺えるのではないでしょうか。
ちなみに、歴史の教科書にも乗っている「日比谷焼き討ち事件」の際には、「桂とともにお鯉を殺せ」といった声が上がったと言われています。