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徳川家を出奔した石川数正(松重豊)、秀吉に仕えてその後どうなった?【どうする家康】:2ページ目
かなりの好待遇ではあったけれど……
……のち従五位下に叙し、出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主となり八万石を領す。文禄二年卒す。的翁宗善筒三寺と號す。室は内藤右京進某が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
さて、ここからが本題ですが、秀吉に仕えた以降、石川数正の晩年は正直あまりパッとしません。
秀吉のもとで従五位下・出雲守に叙任され、天正18年(1590年)7月に北条氏政・北条氏直(西山潤)が滅ぶと、信州松本城主として8万石を与えられました。
この地は前に家康が治めていたのですが、秀吉の命令で家康が関東に国替えとなったため、その後に入った形です。
これはこれで大層な出世ながら、秀吉や政権中枢からは距離を置かれてしまいます。
考えてみれば、どんな事情であれ永年仕えた主君を見捨てるような者は信用できませんし、また家康から送り込まれたスパイとも限りません。
徳川家中に秘されていた戦術など機密情報を抜き取るだけ抜き取ったら、後はポイ。秀吉は他家の者たちにもそういう手を使っており、数正もその一人だったようです。
そして文禄2年(1593年)に世を去りました。享年61歳。
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