将来を嘱望されながら”セリフ死”してしまった織田信忠(信長嫡男)…その生涯を振り返る【どうする家康】
NHK大河ドラマ「どうする家康」皆さんも観ていますか?楽しんでいますか?
さて、織田信長(演:岡田准一)の嫡男として将来を嘱望されていながら、本能寺の変(天正10・1582年6月2日)のドサクサに紛れてセリフ死(※最期が描かれず、セリフでのみ死亡が言及されること)してしまった織田信忠(おだ のぶただ)。
文武両道のエリートとして数々の功績を重ね、信長の後継者=次代の天下人として申し分ない逸材だったのに、この扱いはあんまりじゃありませんか。
……という訳で、今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、織田信忠の生涯をたどってみたいと思います。
果たして、どんな活躍をしていたのでしょうか。
信長の期待に応え、伝家の宝刀を受け継ぐ
織田信忠は弘治3年(1557年)、信長の長男として誕生しました。母親は生駒蔵人家宗(いこま くらんどいえむね)の娘、幼名は奇妙(きみょう)と言います。実に奇妙な名前ですが、信長のエキセントリックな性格が垣間見えるようです。
さて、そんな信忠は天正2年(1574年)に従五位に叙せられ。翌天正3年(1575年)3月28日には出羽介の官職を授かりました。同年6月には正五位下に昇進、11月7日付で秋田城介となります。父の威光で、スピード出世ですね。
さらに天正4年(1576年)1月5日に従四位上となり、生まれ故郷の清洲城から岐阜城へと移りました。
天正5年(1577年)1月に正四位下へ昇進しますが、文治のみならず武略においても将器を発揮。同年10月には謀叛を起こした松永久秀(まつなが ひさひで)を大和国信貴城(信貴山城。原文ママ)に攻め滅ぼし、10月13日に京都へ凱旋します。
この軍功により従三位中将となり、晴れて公卿の仲間入りです。
【参考・当時の位階】
正一位⇒従一位⇒正二位⇒従二位⇒正三位⇒従三位(今ココ!)⇒正四位上⇒正四位下⇒従四位上⇒従四位下⇒正五位上⇒正五位下⇒従五位上⇒従五位下……(六位以下略)
しかし信忠は「出先で父の許しを得ぬまま官位(位階と官職)をお受けするのは、主従そして親子の道に反します」と一度は辞退。
それでも勅使が是非にと言うので、信忠は信長に伺いを立ててから慎んで受けたそうです。この考え深い態度に信長も末頼もしく思ったことでしょう。
天正10年(1582年)2月には甲斐の武田勝頼(演:眞栄田郷敦)を討つべく兵5万騎を率いて信州高遠城を攻略。3月には勝頼を滅ぼし、信濃・甲斐・駿河・上野など武田領をことごとく平定しました。
この活躍に信長は大喜び、家臣の福富平左衛門貞次(ふくとみ へいざゑもんさだつぐ)を使者として祝辞を贈ります。
「出陣からわずかに30日で強敵の武田を滅ぼし、数か国を平らげた功績は立派である。今年の冬には正式に家督を譲ろうと思うので、その証拠として伝家の宝刀を授けよう」
と、父・織田信秀(演:藤岡弘、)から受け継いだ名刀を与えました。