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駿河侵攻の裏で起きていた家中騒動!今川家の今後を決める信玄と嫡男・義信の対立【どうする家康】

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謀反人となった義信

そして、そのほころびが大きな溝になったのが、永禄7年(1564)頃。義元の死によって弱体化した今川家を攻めるか否やの問題で2人は対立しました。

義信は正室に嶺松院がいることもあり、今川との同盟関係を維持する親今川路線でした。

さらに、この対立を利用して義信の世話役・飯富虎昌(おぶ-とらまさ)が信玄暗殺を企てます。しかし、虎昌の弟である飯富源四郎(後の山県昌景)に密告され、虎昌は謀反人として捕らえられます。

翌年、虎昌は責任を取る形で自害し、義信は東光寺に幽閉されました。そして、永禄10年(1567)に東光寺にて30歳で死亡。自害とも病死ともいわれています。

義信亡き後の武田家

義信の死によって、武田家の後継者は信玄四男の武田勝頼が継ぐことになりました。また、嶺松院は今川氏真の要請で駿河国へ帰国。その後出家しました。

信玄は永禄11年(1568)に駿河侵攻を実行し、今川家を滅亡に追い込みました。

最後に

信玄の駿河侵攻の裏で起きていた嫡男義信の謀反騒動。『どうする家康』では紹介されることはありませんが、知っておくと信玄の底知れぬ怖さがわかってくるかと思います。

腹の底が見えない信玄が今後どのように関わってくるのか楽しみですね。

 

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