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尊皇攘夷運動が加速!江戸幕府を揺るがせたペリーの浦賀来航とはどういったものだったのか?【幕末をわかりやすく】

尊皇攘夷運動が加速!江戸幕府を揺るがせたペリーの浦賀来航とはどういったものだったのか?【幕末をわかりやすく】

江戸時代、江戸幕府を揺るがせたペリーの浦賀来航とはどういったものだったのでしょうか。

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頼りになった「あの男」!幕末期、英語がわからない日本人は黒船来航の時どうやって交渉したのか?

ペリーが黒船を率いて浦賀に現れた際、日本に英語ができる幕臣はいませんでした。ペリーたちは、どんな言葉で幕府側と交渉したのでしょうか。実は、アメリカ側も日本側も、英語ではなく、オランダ語を使って…

ペリーの浦賀来航に先立つ1739年、ロシア船が安房沖に出没していたのを皮切りに、1792年にはロシアが通称を求めるなど、すでに100年ほど前から、日本近海には、ヨーロッパ船が頻繁に来るようになっていました。

ところが、そんな状況下でさえ、幕府は、海禁政策を改めようとはしませんでした。

そんな江戸開闢以来、250年の平和な時代に終わりを告げたのは、1853年のアメリカの軍艦の来航でした。いよいよ、幕府としても外国を無視できなくなったのです。

当時、隣の大国であった清がイギリスとアヘン戦争で負けたことは、すでに日本人の一分の知識階層の間に衝撃を与えていました。

アメリカの圧倒的な軍事力の前に、幕府の海禁政策は転換され、1854年、日米和親条約が結ばれました。

何故不平等な条約が結ばれたのか?密着!和親条約締結その瞬間【前半】

1854(嘉永7)年、1月16日に、マシュー・ペリーが再来日しました。前年6月3日の日本来日から、約7か月後のこととなります。ペリーは再来航の際、浦賀奉行の停泊命令を無視し、江戸湾を羽田沖まで進入しま…

この条約締結までの過程で、幕府が政府としての能力に乏しいことが露呈し、国論も開国か攘夷かの議論で二分されたのでした。

2ページ目 幕府への不満が尊皇攘夷運動に発展

 

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