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鎌倉と朝廷の二重スパイ!?生田斗真が演じる源仲章の人違いエピソード【鎌倉殿の13人】

鎌倉と朝廷の二重スパイ!?生田斗真が演じる源仲章の人違いエピソード【鎌倉殿の13人】

鎌倉と朝廷の二重スパイ?

古来「鳥なき郷の蝙蝠(こうもり)」とはよく言ったもので、京都では大した学績のなかった仲章でも、鎌倉政権では貴重な実務官僚として活躍できたようです。

やんごとなき雅やかオーラが気に入られたのか、将軍御所の近くに館を与えられた仲章は実朝に都文化の薫陶を与える一方で朝廷に鎌倉の内部機密を伝えるなど二重スパイであったとの説もあるとか。

もちろん実朝の母である尼御台・政子(演:小池栄子)や叔父であり執権の北条義時(演:小栗旬)がこれをただ見逃すはずもなく、ある程度は鎌倉の情報を流しつつ逆に都の情報を引き出すなど、水面下での暗闘があったものと考えられます。

何食わぬ顔で鎌倉と京都を行き来しながら建保4年(1216年)には政所別当(長官に当たるが、複数名で職務を分担)となり、また建保6年(1218年)には幕府より従四位下・文章博士(もんじょうはかせ)に推挙されて昇殿を許される殿上人となりました。

もしずっと京都にいたら、果たしてここまでの立身出世は成ったでしょうか。きっと得意の絶頂であった仲章、しかし彼の運命はよくも悪くも実朝と共にあったのです。

広元の目にも涙

さて、年も明けて建保7年(1219年)1月27日。仲章は実朝の鶴岡八幡宮寺参拝にお供します。

「ん?覚阿よ、いかがした」

覚阿(かくあ)とは出家した大江広元(演:栗原英雄)の法号(以下、広元)。鬼の目にも涙と言ったら失礼ですが、どういう訳か涙があふれて止まらない様子。実朝の問いに、広元は訴えました。

「拙僧は成人してよりこの数十年、およそ泣いたことがございませなんだ。しかし御所(実朝)様のおそばへ寄ると、どうしても涙を禁じ得ませぬ。どうにも胸騒ぎが致します。かつて亡き右大将(頼朝)が東大寺供養の折、束帯の下に腹巻(はらまき。腹囲を防護する鎧)を着けられたように、御所様もそうなされませ」

【原文】覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令着腹巻給云々。

「……ふむ。万一の備えは大切じゃな。いかがしよう」

実朝が諮問したところ、仲章はこれを却下します。

「いけません。大臣・大将ともあろう御方がそのようなことをなさった前例はございませぬ」

【原文】仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。

「……左様か」

こうして実朝は仲章の進言に従って腹巻を着けずに参拝することとしました。さて、出かけようという時になって実朝は庭先の梅を見て、こんな歌を詠んだのです。

出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
(出て去なば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな)

【意訳】私が出て行ったら、ここは空家となる=私は二度と戻らない。しかし君(軒端の梅)は春を忘れないで=咲き続けて欲しい

これはかつて菅原道真(すがわらの みちざね)が詠んだ

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

【意訳】春風が吹いたなら、香り高く咲いておくれ。私がいないからといって、春を忘れないでおくれ。

という名歌の本歌取り(オマージュ、リスペクト)。歌を愛した実朝らしい、これが辞世となったのでした。

3ページ目 人違いで殺された仲章

 

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