「鎌倉殿の13人」やってくれましたね、最後の最期で…第30回放送「全成の確率」振り返り:3ページ目
実は頼全だけじゃない・全成の息子たち
ここで頼全の名前が出たことですし、せっかくなので全成の息子たちを一挙に紹介します。
長男・阿野頼保(らいほう/よりやす)
『吾妻鏡』には登場せず、『尊卑分脈』に名前があるのみ。詳細不明。
次男・阿野頼高(らいこう/よりたか)
『吾妻鏡』では死後の言及のみ。『清和源氏系図』での別名は阿野隆光(りゅうこう/たかみつ)。元久4年(1207年?元久は3年までなので建永2年か)に将軍位を望んで謀叛を起こし、粛清されたと言います。
三男・阿野頼全(らいぜん/よりまさ)
通称は播磨公。『吾妻鏡』では京都・延年寺(現:京都市東山区)で殺される場面のみ登場、死後にも少し言及があります。
四男・阿野時元(ときもと)
母親は北条時政の娘=阿波局(実衣)。建保7年(1219年)に第3代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)が暗殺されると将軍位を狙って挙兵、鎮圧されたと言われています(一説には、北条氏が粛清を謀ったため自衛のため兵を集めたとする説も)。
五男・阿野道暁(どうぎょう)
『尊卑分脈』にのみ登場。駿河国岩本寺(現:静岡県富士市か)の僧都を務めたとの記録があります。
六男・阿野頼成(らいじょう/よりなり)
『尊卑分脈』にのみ登場。紹介は「小松原禅師」のみ。小松原という地名は複数あるので、その内いずれかで活躍したのでしょうか。
時元の子孫は細々と家名を保ったものの、やがて南北朝時代にはすっかり廃れてしまったとか。
ほか全成には娘がおり、藤原公佐(ふじわらの きんすけ)に嫁いだ娘の子孫は後世にその血脈をつないでいったのでした。