逆賊とされた蘇我入鹿を祀る神社が奈良橿原にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】
旅や歴史についての執筆が多い筆者が、取材などの途中で見つけた隠れた歴史スポットを紹介します。
飛鳥時代の最高権力者でありながら、天皇家に対する逆賊として、大化の改新(乙巳の変)で討たれた蘇我入鹿。その入鹿を祭神とする全国唯一の神社である橿原市(奈良県)の入鹿神社を取り上げます。
まずは【前編】で、蘇我入鹿とはどのような人物かを紹介しましょう。この記事が、少しでも皆さんの歴史探訪の旅の参考になれば幸いです。
大化の改新で討たれた蘇我入鹿
入鹿神社をご紹介する前に、その祭神である蘇我入鹿についてお話をさせていただきましょう。
入鹿を語る時、「645」という数字は大きな意味を持ちます。もちろん、この数字を聞くと、歴史好きの皆さんはすぐに「ピンとくる」のでないでしょうか。
そうです、西暦645年は、日本古代史上を揺るがす大事件である大化の改新(蘇我蝦夷・入鹿父子を滅亡させた事件を乙巳の変といい、その後の政治改革を大化の改新と称する)が起きた年です。
中大兄皇子や中臣鎌足らが、飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を殺害。さらに、兵をもって甘樫丘の麓にあった入鹿の父・蝦夷の邸宅を囲み、蝦夷を自害させ、蘇我本宗(本流)家を滅亡させました。
この事件を契機に天皇家(大王家)が中心になり、日本が律令(法律・刑罰)を備えた中央集権国家としてスタートを切る、そんなきっかけとなったといわれる出来事なのです。
大化の改新の歴史的な意義や真実の考察は別の機会に譲るとして、この事件で暗殺された、蘇我入鹿について簡単に触れてみましょう。
【古墳時代以前から続くとされる有力豪族・蘇我氏】
入鹿は、西暦611年頃に生まれたと考えられています。蘇我氏は、古墳時代以前から続くとされる有力豪族ですが、歴史上で存在が確実視されるのは、入鹿の曾祖父である稲目からと考えられます。
稲目から馬子-蝦夷-入鹿と4台にわたり本宗家の血筋は続き、稲目と馬子は、それぞれ自分の娘を天皇に嫁がせ、いわゆる外戚として大きな権力を握りました。
二人の権力を引き継いだ、蝦夷、入鹿も蘇我氏系の大王の血縁者として勢力を振るいます。蝦夷は、妹の法提郎女が嫁いだ欽明天皇をバックに、そして入鹿は二人の子であり皇位継承No.1の地位にあった古人大兄皇子を後見することで、ヤマト政権内で最高権力者としての地位を固めたのでした。