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逆賊とされた蘇我入鹿を祀る神社が奈良橿原にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】

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蘇我入鹿に対する本当の評価

 

大化の改新で中大兄皇子らに討たれた蘇我入鹿の歴史的な評価蘇我氏の全体像を踏まえて、少々触れてみたいと思います。

蘇我氏本宗家(稲目から入鹿)が生きた時代、中国では律令を国の基準とした国家である、隋から唐へ王朝が変わる時代でした。こうした動きは、中国から朝鮮半島を経て日本へも大きな影響を与えたのです。

特に、隋・唐が用いた律令制は、豪族の連合政権であったヤマト政権の国家運営に根本的な変革を促したのは間違いないでしょう。

蘇我氏は、朝鮮半島からの帰化人である渡来人と密接な関係を築いた氏族といわれています。蘇我氏が、律令制に通じた渡来人を起用して、中央集権的な官司制の確立を目指したと考えても、何の不思議もないでしょう。

その政策が、馬子・蝦夷・入鹿と受け継がれたのです。この点に関しては、中大兄皇子(天智天皇)らの改新政府が推進した政策と何ら変わることがないのにお気づきでしょうか。そうです、開明的な蘇我氏こそが大化の改新の先達的な役割を果たしたのです。

 

蘇我入鹿について、藤原鎌足・武智麻呂らの事績を記した『藤氏家伝』は、次のように記しています。

旻法師、大臣に語りて曰く、吾堂に入る者、蘇我太郎に如くものなし

旻法師とは、遣隋使に同行して入隋、帰国したのちは改新政府の政治ブレーンとして、朝廷から信頼を集めた学者僧ののことです。

その僧旻が、自分の開いた私塾(吾堂)に学ぶ者の中で、蘇我太郎(入鹿)に及ぶものがないと讃えていたのです。私塾には、中臣鎌足、中大兄皇子(天智天皇)、軽皇子(孝徳天皇)などの、当時の秀才たちが学んでいました。そうした才能あふれる若者の中でも、入鹿の才は、抜きんでていたのでした。

 

【前編】はここまで。【後編】では、蘇我入鹿を祀る入鹿神社をご紹介します。

 

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