幕末「松下村塾」の誤解── 吉田松陰は創設者でもなく、指導期間もわずか、塾生名簿すらなかった
吉田松陰はほとんど教えていない
松下村塾といえば、後の明治維新の中心人物となった長州藩出身の人たちが学び、吉田松陰が人材を育てた場、というイメージが一般的です。
ただ、そうした著名な人物全員が松下村塾出身だったというわけではありません。
そもそも、松下村塾は吉田松陰が開いた塾ではありませんでした。松下村塾は松陰の叔父にあたる玉木文之進という人物が自宅で始めたもので、設立は1842年頃です。
その後、親戚の久保五郎左衛門という人物が引き継ぎ、それを松陰が引き継いだのは1857年(安政四年)でした。
彼は1858年には捕まって牢に入れられてしまいますから、実際にはわずか一年ほどしか教えていない計算になります。
※関連記事:歴史上稀有な長州の天才!幕末の偉人「吉田松陰」の功績と心に突き刺さる名言集【前編】
幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた
誰が塾生だったのかよく分からない
これだけでもちょっと驚きですが、さらに驚くべきデータがあります。松下村塾には塾生名簿が存在しておらず、正確には誰が学んでいたか分からないのです。ですので、中には自称教え子もいた可能性があります。
ちなみに維新の三傑の一人である桂小五郎(後の木戸孝允)は松下村塾出身ではありません。
ただまったく無関係ではなく、藩校明倫館で吉田松陰が教えていたときに授業を受けています。
またグレーなのが伊藤博文と山県有朋で、この二人は本当に松陰の直接的指導を受けていたのかよく分かりません。
伊藤博文は身分が低いために塾内には入らず、本人曰く「外で立ち聞きしていた」という感じだったようですし、山県有朋は「自分は軟弱な文学の士ではない」と入門を拒否したという話も残っています。
山県については、仮に入門していたとしても、松陰が入牢していた時期がかぶるので短い時期の接触しかなさそうです。
確実に吉田松陰と深い関係・交流があったのは、久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・高杉晋作の四人くらいではないでしょうか。



