黒船見学は庶民の娯楽だった!?幕末の「黒船来航」にまつわるさまざまな俗説と勘違い
珍しくなかった外国船
ペリーの黒船来航は、日本史では未曾有の衝撃的な出来事と語られることが多いです。
しかし、江戸の庶民にとって、あれは突然の出来事ではなく、長い外国船との付き合いの延長線上で起きたことでした。
そもそも18世紀の日本では、外国船の来航は珍しくはなかったのです。
新井白石は、財政支出削減策として正徳の治と呼ばれる政治改革を行い、長崎での貿易を制限しました。
しかし現実的ではない制限策はかえってヤミ取引を助長するもので、この政策をきっかけに密貿易が横行します。外国船がしばしば九州や西日本の太平洋側に出没するようになりました。
白石は「唐船打払令」を出してこうした密貿易に対応しましたが、1705年から1791年の間には150隻以上の外国船が日本沿岸に出没しています。
外国船が沿岸にやってくる風景は、当時の庶民にって日常的なものだったのです。
密貿易までやっていた
沿岸の漁村や農村の人々は、こうした外国船の出没に慣れていました。
では諸藩はどう対応していたかというと、沿岸の漁村・農村に異国船の来航を報告させたり、対応を指示したりしていました。
中には、出合交易と称して、沖合で外国船と密貿易をしていた人々もいたのです。
1825年の外国船打払令が出る前は、外国船に燃料と食料、水を与えて長崎へ誘導する柔軟な対応が一般的でした。
打払令後もその状況は大きくは変わりませんでした。反対に、薪水給与令によって外国船への補給が制度化されたからです。
こうした中で諸藩も外国船対応マニュアルを作っており、村役人や名主を通じて庶民に共有していたのです。誰もが外国人と接触する「心構え」を持っていました。

