全ての政治家は上杉鷹山を見習うべし!米沢藩を救った民福主義の改革とは【前編】
財政破綻をきたした米沢藩を卓越した手腕で改革を行い、再建を果たした上杉鷹山(うえすぎようざん)。その政策は、権力を振りかざすことなく、民への思いやりに溢れた民福主義の「精神の改革」にありました。
政治家による権力の私物化や政治の劣化が目立つといわれる現代において、今こそ求められる理想のリーダー像ともいわれる鷹山。前半では、上杉鷹山とその改革についての経緯をご紹介しましょう。
上杉鷹山と藩政改革の経緯
皆さんは、上杉鷹山(うえすぎようざん)をご存知でしょうか?
鷹山は、江戸時代後期に第8代米沢藩藩主を務め、財政破綻をきたし、消滅の危機に瀕していた米沢藩を見事に再建した人物です。
上杉鷹山は、1751(寛延4)年に日向高鍋藩主の次男として生を受けました。鷹山とは隠居後に名乗った名で、本名は治憲(はるのり)といいますが、一般に鷹山の名が著名ですので、本記事でも鷹山で進めていきます。
鷹山は、10歳で上杉謙信以来の名門・米沢藩主上杉家の養子となり、17歳で新藩主の座に就きました。しかし、藩主就任早々に、藩財政の破綻寸前という難題を突き付けられます。
財政難に陥っていた米沢藩
米沢藩が財政難に陥った理由は複雑なものがありました。中でもよくいわれているのが、上杉謙信の跡を継いだ景勝が関ケ原の戦いの責により、会津120万石から米沢30万石に国替えになったとき、謙信以来の約定を守り、家臣団のリストラを行わなかったため、人件費が累積して莫大な借財の一因になったという説です。
そのような理由が重なり、米沢藩は現代に換算すると約200億円の借財を抱えており、消滅の危機に陥っていたのです。この事態に、前藩主の上杉重定は、思い余って幕府に領地献上を図ったというくらい、それは酷い状況でした。
鷹山は、藩主となるとすぐに米沢藩の再建に乗り出します。しかし、そこには名門ならではの壁がありました。重臣をはじめとした家臣たちは、何事に対しても謙信以来の伝統としきたりを重んじ、大きな変化を望みませんでした。