主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】:2ページ目
六人目・秀長さまの兄ではあるが
高野山にいた高虎の下に、亡き秀長の兄で、天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)から直属の部下として現役復帰しないかという誘いが舞い込みます。
「秀吉さまか。あれほど尽くした弟の家系を断絶させた方ではないか。たしかに後継者はいなかったが、その気になれば養子を取らせるなどして存続させることはできたはずなのに……」
そんな思いがあったのか、なかなか良い返事をしなかった高虎ですが、最終的には承諾し、伊予(愛媛県)宇和島7万石を与えられて大名となります。
新領地である宇和島が水軍の拠点であったことから、水軍を率いて秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)に参加。海戦はもちろん、陸戦でも戦功を立てています。
そして1598年、秀吉が没する少し前から徳川家康に接近。
1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、東軍主力として戦ったのはもちろん、西軍の切り崩し工作も行いました。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の西軍から東軍への「寝返り」が有名ですが、実は秀秋の挙動が怪しいことは西軍首脳も見抜いており、その周辺に脇坂、朽木、小川、赤座といった大名たちを配置して秀秋の裏切りに備えていました。
しかしその四人は高虎の手によって東軍に通じていたため、本来小早川勢を防ぐはずだった連中がいっしょになって襲い掛かってくるという、西軍にとっては悪夢のような光景が現出したのでした。
七人目・徳川家の忠臣として
かくして関ヶ原の戦いを制した徳川家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。これに伴い、高虎も江戸幕府の大名となったのです。
その後も大坂の陣、江戸城の改築、朝廷との折衝、他の大名家のフォローなどで活躍。徳川家康(とくがわいえやす)はもちろん、その後継者である秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)からの信頼も厚く、最終的には伊勢・伊賀に移され、32万石を領する大大名になります。
そして1630年、75歳でこの世を去ったのでした。その遺骸は老人とは思えないほどたくましく、その全身は傷跡だらけで隙間もないほどだったと言います。