戦国時代、謀殺されて怨霊となったアイヌの首領・ショヤコウジ兄弟のエピソード
かつて蝦夷地(現:北海道)や樺太、千島列島に独自の文化を繰り広げていたアイヌ系諸部族(以下アイヌ)は、本州の人々と交流したり争ったりしていました。
歴史の授業では江戸時代初期に勃発したシャクシャインの乱(寛文九1669年)について軽くふれた記憶がありますが、当然それだけではありません。
そこで今回は、戦国時代におけるショヤコウジ兄弟の戦いを紹介したいと思います。
渡島半島の統一を目指すショヤコウジ兄弟、蠣崎光広を攻める
ショヤコウジ(庶野訇峙)兄弟については諸説あり、ショヤコウジ(地名?家名?あるいは部族名?)の兄弟なのか、ショヤ(兄?)とコウジ(弟?)という二人の名前をつなげただけなのか、もしくは兄か弟のどちらかがショヤコウジという代表格であり、彼に兄弟がいたことを示している(例:劉備3兄弟)のか、はっきりしません。
いずれにせよ、彼らは渡島半島の東部に勢力を広げていたアイヌの首領で、永正十二1515年(※)に同西部を支配していた蠣崎光広(かきざき みつひろ)の領土へ侵攻します。
(※史料によって永正十六1519年とする記録もありますが、光広はその前年に亡くなっているため、ここでは永正十二年説を採りました)
ショヤコウジ兄弟が戦争を挑んだ理由については不詳ですが、おおかた利権の対立か、蠣崎領の守備が手薄だったのか、その隙を衝いて縄張りを広げようとでもしたのでしょう。
よくアイヌの歴史について語る時、こと和人(あるいは和人寄りの蝦夷など)との関係性において「搾取と迫害に追い詰められて決起した」的な論調が目立つものの、アイヌだって常に「和人支配に虐げられるばかりの弱者」ではなく、積極攻勢に出ることも間々ありました。