源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【四】
前回のあらすじ
時は平安末期の治承四1180年、源氏討伐の動きを察知した源頼朝(みなもとの よりとも)は、生き残りを賭けて挙兵。そこに舅の北条時政(ほうじょう ときまさ)をはじめ、御家人たちも加勢します。
北条義時(よしとき)と兄・北条宗時(むねとき)は父に従って出陣。平治の乱(平治元1160年)以来、20年間におよぶ雌伏を経て、いよいよ源氏再興の戦いが始まろうとしていました。
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源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【三】
いざ受け候え!…射放たれた平家討伐「最初の一矢」
さて、山木判官兼隆(やまき ほうがんかねたか)の夜襲に当たって、ちょっと問題が生じました。
「今日は三島大社のお祭りがあって、表通り(牛鍬大路)を進軍すると人目につきやすくなります。ここは裏通り(蛭島通)から行った方がいいのではないでしょうか?」
時政の提案に、頼朝はしばし考えましたが、
「いや。此度の挙兵は今後の命運を左右する大勝負……天下に名乗りを上げる初戦なのだから、コソコソ裏通りなんか選ばず、表通りから堂々と行こうぜ!」
【原文】但し事の草創として、閑路を用い難し。はたまた蛭島通におひては騎馬の儀叶ふべからず(意:狭くて騎馬では通れまい)。ただ大道(たいどう)たるべし
おぉ……豪胆な頼朝の決心に、一同感嘆の声を洩らします。姉・政子を娶った時はただの女たらしとばかり思っていたのに……義時もその将器に奮い立ちました。
「この御大将なら、きっと勝てる!」
テンションも上がったところで、頼朝は必死で掻き集めた約90の兵から5名だけ宿直(とのい。自身の身辺警護)に残して、約80名を二手に分けます。
片方は山木判官の館へ、もう片方は山木判官の後見人・堤権守信遠(つつみ ごんのかみのぶとお)を襲撃させるためです。
この信遠は優れた勇士として知られ、山木判官に合流されたら厄介なので、個別に撃破しようという作戦。義時は時政らと信遠攻略に加わります。
「南無八幡大菩薩……この矢、いざ受け候(そうら)え!」
信遠の館に到着した軍勢の中から、佐々木次郎経高(じろうつねたか。定綱の弟)の射放った矢が、後世『吾妻鏡』に言う「源家平氏を征する最前の一箭(いっせん。箭=矢)」となったのでした。
2ページ目 月夜の大乱戦、佐々木兄弟の連係プレーで堤信遠を討ち取る!