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親子の確執で切腹? 天下人になり損なった徳川家康の嫡男「松平信康」【後編】

親子の確執で切腹? 天下人になり損なった徳川家康の嫡男「松平信康」【後編】

21歳という若さで非業の死を遂げた徳川家康の長男・「徳川信康」。信康の死の真相は今だに解明されていない。今回は信康の死にまつわる様々な説をご紹介する。

前回の記事

親子の確執で切腹? 天下人になり損なった徳川家康の嫡男「松平信康」【前編】

天下人として江戸幕府を開府し、初代将軍の座に着いた「徳川家康」。家康の後を継いで2代目の将軍となった「秀忠」は三男であった。家康の嫡男は「徳川信康」といい、わずか21歳で死亡している。寿命を全…

嫁と姑の不仲説(通説)

【前編】で記載した通り、信康の母親であり家康の正室「築山殿」は今川家の血を引いている。対して、信康に嫁いだ「徳姫」は信長の娘であり、織田家の人間だった。敵対関係にある家出身の2人の関係性は悪かったという。

徳姫は1576年に信康の長女・登久姫、77年に次女の熊姫を出産。しかし、男児に恵まれず、それを危惧した築山殿は側室を用意したという。

信康との関係も上手くいっていなかった徳姫は、自分に対する讒言や築山殿の密通の可能性などを父・信長に手紙で密告。事実を知った信長が、家康に対して信康の処刑を命じたとされる。

親子(家康・信康)不仲説

家康と信康の親子関係が悪かったために仲違いしたという説。元々、信康は家康が駿河時代に作った子供であり、養育は今川方で行われていた。人質から解放された後も家康は間をおかず浜松城に移っているため、親子が生活を共にした時間は少なかった。

その事実が信康と家康に価値観や方向性の対立を生み、家中の分裂を恐れた家康が粛清したと考えられている。

2ページ目 クーデター説

 

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