実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【四】
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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【三】
時は幕末・文久三1863年、浪士組の一員として京都に上洛した隻眼の剣術家・平山五郎(ひらやま ごろう)は、水戸派のボス・芹沢鴨(せりざわ かも)に従って壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ。後の新選組)に鞍替えします。
副長助勤に就任した五郎ですが、壬生浪士組の内部では近藤勇(こんどう いさみ)率いる試衛館派との権力争いが繰り広げられており、いつしか「御公儀(幕府)の役に立つ」という本来の目的を忘れかけていました。
そんな状態の中、京都守護職の松平容保(まつだいら かたもり。会津藩主)の目にとまり、晴れて壬生浪士組は「会津藩お預かり」として、市中見回りの正式任務に胸を張って京都を闊歩するのでした。
調達した軍資金で、トレードマークの旗と羽織を特注
さて、晴れて会津藩のお預かりとなった以上、これまでのような「身ぼろ組(壬生浪士に対する京都市中での陰口)」では、主君・容保公に恥をかかせてしまいます。
なので早速、身なりを整えようと思ったのですが、会津藩は京都守護職の激務で予算が欠乏しており、装備品等については「自己調達(≒自分たちで用意しろ)」となりました。
「よぅし、俺に任せろ。お前ら行くぞ!」
「「「はい!」」」
芹沢鴨が水戸派のメンバー(新見錦、平間重助、平山五郎、野口健司)に声をかけると、肩で風を切って出て行きました。
「……おぅ、百両もありゃいいよな?」
数日後、帰って来た芹沢が放って寄越した百両は、聞くと大阪の両替商・平野屋五兵衛(ひらのや ごへゑ)から恐喝してきたそうです。
「芹沢さん、何ということを!」
「何だよ近藤君……恐喝なんて人聞きが悪ぃじゃねぇか。俺ァちゃんと平野屋に言ったぜ?『ツケは会津藩に回してくれ』ってよ」
ともあれ折角の百両ですから「出世払いで返そう」ということにしておいて(もちろん平野屋さんには無断)、これを元手に浪士組の旗や服装を調達。
「ま、デザインは任せるぜ。お前ら(試衛館派)の方でテキトーに決めといてくれ」
……で、決まったのが「誠」の旗と、ダンダラ浅葱の羽織。考えたのは近藤勇と言われていますが、決死の覚悟で大志を遂げた赤穂浪士と同じデザイン(※実は後世の創作)にしたところ、一同揃って大不評。
「これコスプレじゃんwww俺たち時代劇でもやんのかよwww」
「浅葱(あさぎ)色とかマジ最悪www野暮な武州人のセンス炸裂www同じ関東とか思われたくねぇwww」
……などとまぁ散々でして、京都市中でもダサ過ぎると評判になってしまい、その反動なのか間もなくダンダラ浅葱は廃止され、黒づくめ装束に統一されていくのでした。