「東洋のガラパゴス」小笠原諸島を大発見した戦国武将とその子孫のエピソード【前編】
日本の南海に浮かぶ小笠原諸島。
日本で唯一(アジアでなく)オセアニア圏に属するだけあって、南国情緒にあふれる多彩な自然や、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれる独自の生態系を30余の島々につけられた小笠原というネーミングには、どのような由来があるのでしょうか。
今回は小笠原諸島の名づけ親?となった、江戸時代のとある浪人のエピソードを紹介したいと思います。
祖先の見つけた南の島を求めて
時は享保十二1727年、南町奉行所に現れた一人の浪人。
彼の名は小笠原貞任(おがさわら さだとう)、通称は宮内(くない)。持参した「辰巳無人島訴状幷口上留書(たつみぶにんじまそじょうならびにこうじょうとめがき)」を徳川幕府に提出しました。
その書面には、以下のような主張が記されています。
「拙者の曽祖父である小笠原貞頼(おがさわら さだより)は、かつて神君・徳川家康公より『多年の戦功により、南海に島があれば与えるゆえ自由に探してよい』とのお許しをいただき、果たして南海を探検して無人島(ぶにんじま)を発見し、その領有が安堵された。よってその権利は貞頼の子孫である拙者が相続すべきなり云々……」
さて、この小笠原貞頼とは、一体どのような人物なのでしょうか。