江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。
確かな証拠こそありませんが、有力な説として、家光の死後に殉死した者は家光と男色関係にあったと考えられているのです!
前回に引き続き、家光に生涯最も愛され、後を追った堀田正盛にスポットを当ててご紹介します。
前回の記事はこちら。
お江戸版おっさんずラブ♡将軍・徳川家光に溺愛された男、堀田正盛【1】
江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。…
悲しい父の死
前回ご紹介した通り、決して身分が高くない旗本の子であった堀田正盛は、縁あって子供の頃から江戸幕府3代将軍・徳川家光に気に入られ、身の回りのお世話をする近習や小姓組として江戸城勤めをしながら、どんどん出世していきました。
わずか1000石だった領地も家光の一声で1万石以上の大名並みとなり、何もかもがとんとん拍子だった正盛。そんな彼に、とても悲しい出来事が起こりました。
寛永6年(1629年)、正盛が20歳の時に、父親が59歳で亡くなってしまったのです。それも、自害でした。
しかもその理由が、せっかく息子の正盛が家光に寵愛を受けて出世しはじめたというのに、身分の低い自分がいたのでは出世の足手まといになるという理由でした。