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差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】

差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】:3ページ目

避けられなかった戦争と、重治の挫折

さて、日本人にとって忘れることの出来ない大東亜戦争が始まったのは、昭和十六1941年12月8日。

そんな中、重治が何をしていたかと言えば、どうにかして戦争を回避しようと、開戦ギリギリまで日米の要人たちを説得し、世論を喚起するべく渡米。各地で講演会を開き、得意の熱弁を奮っていたのでした。

「広大な国土と豊かな資源を持ち、他国に依存しないで生きていけるアメリカがヨーロッパの戦争(第二次世界大戦)に参加したところで、何のメリットもありません。今、一部の政治家が利権を得るためナチス・ドイツに戦争をしかけようと、その同盟国である日本を挑発して戦争に持ち込もうとしているが、そんな欲望のために皆さんの大切な息子さんやパートナーを戦場に送ってはなりません……」

アメリカにとって、日本もヨーロッパもどうでもいい(関わらなくても特に支障がない)存在であり、アメリカは孤高の平和を保っていられる状態でした。

にも関わらず、どうしてもヨーロッパの利権ほしさに世論を煽り立てて日本と戦争し、日本の同盟国であるナチス・ドイツを攻撃したがる政治勢力がアメリカ国内に台頭していました。

経済的に追い詰められたら、資源に乏しい日本が暴発、戦争になってしまう……そんな最悪のシナリオを是が非でも避けるべく、重治は首相の東条英機(とうじょう ひでき)をはじめ、中学校時代の先輩でもある石橋湛山や、グルー米大使そして近衛文麿(このえ ふみまろ)らに必死の説得を行います。

……しかし、努力も虚しく軍部が暴発してしまい、大東亜戦争が勃発。

四方(よも)の海 みな同朋(はらから)と 思ふ世に
など波風の 立ちさわぐらむ
※明治天皇 御製

【意訳】世界中のみんなが家族のように仲良くあって欲しいと願っているのに、どうして戦争は起こってしまうのだろうか……。

なおも早期終結・講和を訴え続けた重治は政界からも疎ましがられ、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の推薦が得られなかったため昭和十七1942年の衆議院選挙で落選。再び戦後に返り咲くまで、失意の浪人生活を強いられるのでした。

【後編に続く】

※参考文献:
笠井盛男編『笠井重治追悼録』昭和六十二1987年4月
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
七尾和晃『天皇を救った男 笠井重治』東洋経済新報社、平成三十2018年12月

 

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