差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【中編】:2ページ目
帰国後「国際社会に向けて、日本への理解を深めるために英文出版が必要だ」と感じた重治は大正十三1924年に国際出版印刷株式会社を創立、積極的な情報発信を展開します。
また、東京市会議員に当選後は「平和の祭典を主催することで、国際社会との融和を図ろう!」と東京市オリンピック(昭和十五1940年開催予定)の誘致に走り回ります。
※その後、国際情勢の不安定化(昭和十二1937年に勃発した支那事変の影響など)から、結局開催には至りませんでした。
刻々と不穏な様相を見せる国際社会、そして列強によって追い込まれる日本を予見・危惧した重治は国政への進出を志し、昭和五1930年の衆議院選挙で故郷・山梨県から立候補するも、強固な支持基盤がなかったため残念ながら落選してしまいます。
その後も諦めずに挑戦し続けて苦節六年、昭和十一1936年の衆議院選挙で念願の初当選を果たして以来当選3回、阿部信行(あべ のぶゆき)内閣では拓務参与官として、植民地の経営や海外へ移住した邦人のサポートに当たりました。
任期中、英語で弁が立つ重治は国際会議の場でも重宝され、列国議会同盟会議(第32回ハンガリーのブダペスト、第34回オランダのハーグ)や万国議員商事会議(ポーランドのワルシャワ)では議員団の一員として日本の国益と国際協調を訴え続け、次第に戦争の色が濃くなっていく世相に一石を投じ続けたのでした。