『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】
「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励むこと。だが、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくないことだ」
これは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で池田鉄洋が演じる丹羽長秀の嫡子・丹羽長重が残した遺言とされる言葉です。
[前編]では冷静沈着なユーティリティープレーヤーとしての丹羽長秀の生涯を紹介しました↓。
『豊臣兄弟!』“いい人”の裏にあった汚れ役の真実…信長・秀吉の間を巧みに生きた丹羽長秀の生涯【前編】
[後編]ではその血を色濃く引き継ぎ、秀吉・家康・秀忠という天下人の治世を生き抜いた丹羽長重の一生をひも解いていきます。
120万石からわずか4万石へ。長重を襲った相次ぐ減封
丹羽長重は1571年(元亀2年)、丹羽長秀の長男として生まれました。幼名は鍋丸といい、通称は父と同じ五郎左衛門を名乗っています。母親は織田信長(小栗旬)の養女・桂峯院でした。
ちなみに長秀の正室も信長の五女・報恩院で1580年(天正8年)に信長の命で縁組が決められ、その2年後に輿入れしました。この縁組により、織田家と丹羽家は二重の婚姻関係で結ばれたことになります。
信長が天下統一に向けて突き進んでいる時期だけに、彼がいかに丹羽家を重視していたかがわかるでしょう。また輿入れの際は、既に信長は死去していたため、代わりに羽柴秀吉(池松壮亮)が介添えを行っています。このことも丹羽家と秀吉の信頼関係を物語っているように思われます。
1585年(天正13年)、長秀が51歳でその生涯を閉じました。長重は父の遺領・120万石余を受け継ぐとともに、秀吉から羽柴姓を与えられます。ここまでの長重の人生は順風満帆と言っても差し支えのないものでした。ところが、長重の人生はここから一転します。
同年、越前の佐々成政(白洲迅)征伐に参陣した際、家臣が成政側に内応したとの嫌疑がかけられます。事態を重く見た秀吉は、越前・加賀を没収、長重は若狭1国15万石に減封処分となりました。
また減封にともない長秀以来の家臣たちの多くが秀吉により召し上げられます。そのなかには後に関ケ原で奮戦のすえ討死した戸田勝成や茶人・造園家として名を残した上田重安(宗箇)もいました。
そして2年後の1587年(天正15年)、またしても長重を不運が襲います。九州平定戦の際に今度は家臣の狼藉を咎められ、ついに若狭国も没収。丹羽家に残されたのは、加賀松任4万石のみとなってしまいます。
つまりわずか2年間で、120万石の大大名から4万石の小大名へと転落してしまったのです。こうした経緯から、後世の長重には「愚かな二代目」「苦労知らずのお坊ちゃん」といった、辛辣な評価が下されることになります。
しかし、ここで一つ腑に落ちないことがあります。それは過酷な処分にもかかわらず、長重に対する秀吉の怒りがあまり感じられないのです。
それを裏付けるように若狭1国に減封処分になった年、長重は関白になった秀吉の参内に供奉し、侍従に任官し公家成を果たし豊臣姓を与えられています。
また小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封されるとともに参議・加賀守にも補任。この時期に参議に補せられたのは、長重のほかに蒲生氏郷、長岡(細川)忠興のみでした。
そして加賀一部のみの領有にもかかわらず加賀守に補任され、国持ち大名の格式を与えられていることから、秀吉は長重を見限ったということではなさそうです。
このことから一連の処置は、秀吉が大きくなり過ぎた丹羽氏の勢力を削ぐために行ったものであるとの説も唱えられています。
2ページ目 家康と利長の対立に巻き込まれるも浅井畷で意地を見せる

