『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜本能寺後に光秀を圧倒した「兵力と速さ」の正体[前編]
一般に日本における戦国時代の始まりは、1467年(応仁元年)の応仁の乱とされます。
一方、その終わりにはいくつかの説があります。たとえば、1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したとき、1573年(天正元年)に信長が義昭を追放したとき、そして1587年(天正15年)に豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げたときなどです。
いずれにせよ、秀吉の天下統一によって、日本国内の戦乱はひとまず収束へと向かいました。そうした視点に立てば、秀吉こそが戦国時代を終わらせた人物と考えてもよいのではないでしょうか。
では、群雄割拠の戦国時代にあって、なぜ秀吉が天下統一を果たせたのか、その理由を[前編][後編]の2回に分けて紐解いていきましょう。
[前編]では、圧倒的な兵力と速力によって敵を攻略した秀吉の戦い方について考察します。
本能寺の変後、誰よりも早く動き光秀を滅ぼす
秀吉の天下取りへの第一歩は、いうまでもなく1582年(天正10年)に起きた本能寺の変でしょう。その直後に起きた山崎の戦いで、信長を殺害した明智光秀を討ち果たします。
秀吉と光秀は、織田政権下でともに方面軍を率いる軍団長という、トップクラスの重臣でした。その二人が真っ向から激突したのが山崎の戦いです。
勝敗を分けた大きな要因は、兵力と速力の差でした。兵力については諸説ありますが、最大限に見積もれば秀吉は約4万人、光秀は約1万6000人と、倍以上の差があったとされます。
この兵力差を埋めるため、光秀は山崎という狭隘な地を決戦場に選びました。しかし戦いは野戦の様相を呈し、時間の経過とともに疲弊する光秀勢に対して、秀吉勢は後続部隊を繰り出すことで最終的に圧倒します。
では、本能寺の変直後、秀吉と光秀は実際どれほどの兵力を動員できたのでしょうか。
1598年(慶長3年)の石高を基準に「1万石につき約300人を動員可能」と仮定すると以下のようになります。
●秀吉:計136万石(近江北部20・播磨35・但馬11・因幡9・伯耆東部5・備前22・美作19・備中東部9・淡路6万石)で約4万1000人。
●光秀:計92万石(近江西部10・丹波26・丹後11・大和45万石)で約2万8000人。
ところが、秀吉がほぼこの兵力を動員できたのに対し、光秀は与力大名から援軍を得られませんでした。
とくに、頼みとしていた細川忠興(丹後)や筒井順慶(大和)などが動かなかったことは致命的で、光秀は実質的に直轄領の36万石、約1万人で戦わざるを得なかったのです。
さらに秀吉は信長の死を知ると、中国戦線で対峙していた毛利氏と急ぎ和睦し、驚異的な速さで畿内へ引き返しました。この「中国大返し」と呼ばれる行動は、光秀の予想をはるかに超えるものでした。
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この兵力と速力で敵を圧倒する戦い方は、まさに信長の戦法の継承でした。
山崎の戦いののち、秀吉は賤ヶ岳・北ノ庄、小牧・長久手、四国征伐、九州征伐、そして小田原征伐へと、この戦法を一貫して用い、天下統一へと突き進んでいきます。



