身命を賭してまで…江戸時代、広島藩5代藩主・浅野吉長の愚行に妻・節姫は切腹、その理由とは?
江戸時代には、驚くことに夫のために切腹した女性がいました。
その人物は浅野吉長の妻である節姫です。果たして、節姫が切腹を覚悟した理由は一体何だったのでしょうか。
今回は吉長と節姫を紹介しつつ、節姫が切腹するに至った理由とその後を合わせてご紹介します。
尾張徳川家の血を引く浅野吉長
天和元年(1681)、安芸国広島藩4代藩主・浅野綱長の長男として吉長は誕生します。母は尾張藩主の徳川光友の娘・貴姫で、由緒正しい生まれの人物であることがわかります。
元禄元年には四位下・備後守に任ぜられ、徳川綱吉と父の綱長から一文字ずつ貰い受け、吉長と名乗りました。
そして、宝永5年(1708)の3月26日に家督を継ぎました。ちなみに、吉長が家督を継いだ数日後の4月1日に綱長は病死しています。
江戸七賢人の一人に数えられた
広島藩の5代藩主となった吉長は、自らで藩政を行うために最初に大規模な人事を実施しました。その対象となったのが浅野家に仕えた3人の家老で、宝永6年(1709)に吉長はその3人を実務から外します。
そして、今まで無かった藩役人の仕事場である御用屋敷と御用達書を設置し、職場改善を図りました。
加えて、正徳2年(1712)に代官制を廃止して豪農を役人として取り立てたことで、農村支配の強化を図りつつも年貢の増徴を実施しました。
しかし、享保3年(1718)に享保の農民一揆が勃発。広島藩も一揆の影響を受け、農村支配の強化は断念せざるを得ませんでした。
この他にも享保10年(1725)に藩政のための人材育成を目的として、藩校の講学所を創設しました。吉長は藩校を通して文武両道を奨励し、本格的な武士教育を展開します。
このような藩政改革が失敗もありながらも成功を収めたことから、吉長は「江戸七賢人」の一人として数えられると共に、広島藩中興の英主と呼ばれました。