異類異形の怪物どもが…鎌倉幕府滅亡は、呪術に手を染めた後醍醐天皇の呪いによるもの!?
1333(元弘3)年、後醍醐天皇が流刑地の隠岐を脱出して倒幕の兵を挙げました。これに呼応したのが楠木正成や赤松則村などで、そこに幕府の御家人である新田義貞や足利尊氏らも幕府を裏切って参加。とうとう、ときの執権・北条高時を自害へと追い込みました。
そして、これによって鎌倉幕府は崩壊、翌年に後醍醐天皇は新政権を打ち立てたのでした。
一般的に学校で教わる鎌倉幕府の滅亡に到るストーリーは、上記のようだと思いますが、実は、鎌倉幕府滅亡の裏には後醍醐天皇による呪いの力が働いていたかもしれません。
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後醍醐天皇は、後宇多天皇の次男として誕生。1381(文保2)年に天皇として即位しました。彼は国の政治は、天皇自ら行うのが本来の姿だという強い信念をもっていました。
当時の後醍醐天皇にとって悲願は、鎌倉幕府を倒し、新しい国を造ること。そこで、二度も倒幕を計画するも、その都度陰謀が明るみに出てしまい失敗してしまいます。
ついに1332(元弘2)年、隠岐に流されることになってしまいます。
ところが、減刑になっても後醍醐天皇の信念は揺るぎませんでした。隠岐にいて何も出来ない状況の中、彼は次第に真言立川流に傾倒していきます。
この立川流は、「究極の悟りは男女の交合をもって可能にする」という,今の価値観で考えてもちょっとヤバい流派。本来仏教では好色を罪とされているのに対し、それを禁じるどころか推奨していたため、真言宗の総本山である高野山からは邪教とされ危険視されていました。
にもかかわらず、後醍醐天皇は立川流を築いた文観(もんかん)を召し抱え、呪術の世界に自ら手を染めていくようになりました。特に行われたのが「大聖歓喜天浴油供」という秘法。
これは、どのような悲法悪行でも必ず成就させるが、一歩間違えれば行者自身が滅ぼされるリスクがあるというとても危険なもの・・・。それを行わざるを得ないほど、当時の後醍醐天皇たちは切羽詰まっていたということでしょうか。
いずれにいせよ、後醍醐天皇は自ら法衣をまとって、幕府を呪いながら一心不乱に祈祷していたと伝えられています。