後鳥羽院の祟り!?怨霊化したことで皇統を守った後鳥羽上皇
わずか4歳で即位することになった後鳥羽天皇ですが、天皇は19歳のときに土御門天皇に譲位して上皇となり、以後23年間にわたり院政を行いました。
源実朝の死後、反幕府の立場を明らかにした上皇は、承久の乱を起こしますが、当時上皇の味方につく武将たちは少なく、あえなく大敗。
承久の乱のあと、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は土佐、順徳上皇は、それぞれ佐渡に配流されました。これにより御堀河天皇が皇位につき、天皇の皇統は、後鳥羽上皇の直系から離れてしまいます。
1239年2月20日、後鳥羽上皇は隠岐で崩御し、その3年後には、順徳上皇が父・後鳥羽上皇の後を追うように崩御します。順徳天皇は、京都に戻ることができないのであれば、これ以上は「存生無益」とし、断食して餓死したとも頭に焼き石を置いて自害したとも伝えられています。
後鳥羽上皇には死後、彼の怨霊化を恐れた人々により、“顕徳院”という諡を送られました。
ところが、後鳥羽上皇が流罪になった後の都には次々と不幸が襲いかかりました。まず、御堀河天皇の皇后であった藻壁門院(そうへきもんいん)、御堀河天皇などが20代という若さで次々と世を去ってしまいました。さらに、その不幸は鎌倉の御家人たちにも起こります。
1242年には、承久の乱のときに総大将だった北条泰時が死去。死因は日頃の過労に加えての赤痢を発症でしたが、このとき世間では、これを後鳥羽院の祟りと噂しました。
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