新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大利鼎吉が詠んだ辞世の心【前編】
古来「人の生き方は、その死に様にこそ表われる」とはよく言ったもので、死を前にした時の言動は、その人の評価を大きく左右するものです。
往時の人々は、死に際して生涯の集大成とも言える辞世(じせい)を記したのですが、老衰ならともかく、戦場や刑場ではなかなかそんな余裕もありません。
そこで平素から辞世を作っておくのですが、死を意識することによってここ一番で命を惜しまぬ=後(おく)れをとらぬよう自分を戒めたり、大義を示すことで自らを鼓舞したりしたものでした。
幕末の志士たちもまたそのようにした者が多く、今回は尊王攘夷に生きた大利鼎吉(おおり ていきち)の生涯を振り返ってみたいと思います。
土佐を脱藩、尊王攘夷の志士たちと合流
大利鼎吉は江戸時代末期の天保13年(1842年)、土佐藩(現:高知県)に生まれました。諱は正義(まさよし)、また史料によって正樹(誤記?変名?)とも記されています。
幕末の風雲吹き荒れる文久元年(1861年)、20歳となった鼎吉は同じく土佐の武市半平太(たけち はんぺいた。瑞山)らによって結成された土佐勤王党(とさ きんのうとう)に加盟。尊王攘夷を推進するべく尽力しました。
「一刻も早く天子様(天皇陛下、朝廷)に政権をお返しし、不埒な外国勢力を一掃せねば、日本国に未来はない。我ら勤王党はその先駆けとして奉公いたそう!」
しかし保守派(尊王攘夷に慎重)であった土佐藩参政(家老)の吉田東洋(よしだ とうよう)を暗殺するなど過激な運動を展開したため弾圧され、鼎吉は文久3年(1863年)に土佐から脱藩。
大君(おおきみ)の 為と思えば やみ得ずも
命にかへて 魁(さきがけ)やせん【意訳】尊王攘夷を実現するため万難を排し、この命に代えても全国志士たちの先駆けを務めよう!
そんな決意を詠んだ鼎吉は、京都へ潜入して長州藩の過激派志士たちと合流します。