なぜこんなところに!?小さな石祠が物語る「日本と鎌倉の激動期」を紹介:4ページ目
関東大震災~そして現代へ
さて、もう少し時代は下って大正十二1923年9月1日。
11時58分32秒ごろ、後世に伝わる「関東大震災」が発生。ここ鎌倉でも甚大な被害に遭い、吾妻社も八幡社もことごとく倒壊してしまいました。
その後の昭和二1927年3月に再建、三社とも亀甲山の上(八幡社跡)に合祀されたのですが、社号(しゃごう。神社の名前)は何故か「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」と、弁天様がリーダーになっています。
元は八幡社だったのだから八幡社に合祀する形で再建するのかと思いきや、それまで吾妻社に身を寄せられていた弁天様がリーダーに返り咲いたというのが実に興味深いですが、神様同士の力関係って、一体どうなっているのでしょうね。
そして現代、踏切の袂に生じた「境内の切れっ端(海軍が買収しなかった部分)」に、往時を偲ぶ地元住民が石祠を建て、弁天様がお祀りされたのでした。
石祠の創建時期は不詳ながら、恐らく関東大震災以後~厳島神社の再建前後(昭和初期)と考えられます。
弁天様は今でも地元住民に親しまれ、亀甲山の上に遷座(せんざ。神様の移住)された弁天様たちと共に、小袋谷の人々を見守られています。
終わりに
以上、とてもローカルな昔話を紹介させて頂きましたが、ここで言いたいのは「歴史とは、遠く隔絶された世界ではなく、自分たちと同じこの世界に生きていた人々の思い出であり、土地の記憶である」ことを、身近に遺された断片、例えば地名とか風習とか文化財とか、そういうものに感じて欲しいのです。
先人たちが紡ぎ続けてきた歴史の息吹を感じ、皆さんそれぞれの故郷に愛情を持って頂けたら、これほど嬉しいことはありません。
※参考文献:
鎌倉市教育委員会編『第7集 としより の はなし』平成二1990年9月1日
鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 社寺編』昭和五十四1979年10月31日