なぜこんなところに!?小さな石祠が物語る「日本と鎌倉の激動期」を紹介:3ページ目
富国強兵!鎌倉をぶった切った「海軍鉄道」
さて、この鎌倉古道に沿って鎮座していた三社に変化が訪れたのは明治時代。
当時の日本政府が推し進めていた富国強兵政策の一環として「海軍力の増強」が急務となっており、軍港として発展していた横須賀と東京を結ぶため、東海道線の大船駅から横須賀にかけて鉄道(現:JR横須賀線)が敷かれる事となりました。
その計画では(現代の地図からもわかる通り)線路が弁天社の境内をぶった切っており、当然ながら小袋谷村民は反対するものの、近代国家としての生き残りを賭けて欧米列強や清国とわたり合わねばならない政府や海軍による用地買収はかなり強引であったらしく、弁天社は取り壊されてしまいました。
村民たちは仕方なく弁天様を近くの吾妻社へ合祀(ごうし。一つの神社に複数柱の神様を合わせてお祀りすること)したのですが、日本政府はこの鉄道で各地から横須賀へと人材や物資を注入して海軍力を増強。やがて日清(明治二七1894~同二八1895年)・日露(明治三七1904~同三八1905年)の両戦役における勝利をもたらすことになるのでした。
まさに司馬遼太郎『坂の上の雲』の世界、その舞台裏を支えたのです。
ちなみに、この線路によって鎌倉五山の第二位である円覚寺(えんがくじ)の境内も見事にぶった切られており、当時の人々がいかに海軍力を求め、近代国家としての生き残りに必死であったかが偲ばれます。