叱られてる内が華?「武士の世」を目指した源頼朝の意識改革と、違反した御家人への悪口雑言を一挙公開:2ページ目
義経らの驕りと、頼朝公の怒り
時は平安・元暦二1185年。
源九郎義経(みなもと の くろうよしつね)を総大将とする源氏方は壇ノ浦の合戦(同年3月24日)で平家一門を滅ぼしましたが、その手柄に驕って朝廷より勝手に官位を受け、これが鎌倉にいる頼朝公の逆鱗に触れました。
頼朝公はかねてより「朝廷から官位や褒美を受ける時は、必ず頼朝公が朝廷に推薦してから受けるよう」ルールを定め、朝廷の権威を自らに集中させることで御家人らの統率を図ろうとしていたのです。
……にも関わらず、大手柄に浮かれ狂った坂東武者が官位に釣られ、公家どもに餌づけされている様子は、鎌倉に「武家の都」を、そして新たな「武士の世」を築こうとする頼朝公の怒りと呆れを煽り立てるに十分すぎる醜態でした。
それに対する頼朝公の怒りが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』元暦二年四月十五日条に記されています。
【意訳】
「……お前の中で、勝手に官位を受けたバカ者がいると聞くが、朝廷から直接官位を受けた以上、お前らはもう朝臣(あそん。朝廷の臣=家来)なのだから、せいぜい京都で公家どもに仕えるこったのぅ。
……もし東国へ、具体的には墨俣(現:岐阜県大垣市)より東に来てみろ。職務怠慢としてお前らの所領は没収、その命はないものと思え!」【原文】
「下す、東國侍の内、任官の輩の内、本國に下向することを停止(ちょうじ)せしめ、おのおの在京して陣直公役を勤仕(きんじ)すべき事。
(中略)もし違ひて墨俣以東に下向せしめば、かつはおのおの本領を改め召し、かつは斬罪に申し行はしむべきの状、件のごとし」
頼朝公の怒りはこれに留まらず、自分の推薦もなく朝廷より官位を受けた御家人24名を名指しして、痛烈な面罵と皮肉を食らわせたのでした。
今回はその中から、特に興味深いものをピックアップしていきます。