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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

確かに西洋画の筆致で、日本橋の魚河岸に押送船が次々に横付けされて活気づく様子が、精妙に描かれているのである。それだけではなかった。他にも何枚か同じように江戸の風景画が並び、月明かりの品川宿や、雪降る赤羽、橋場の渡し、両国橋などもまるきり西洋画風に描かれている。国芳は驚いて首をひねった。

 

 

「何でこねえに江戸の事を細かく描けるんだ?これを描いた異国人は、江戸に住んでるんですかえ」

 

 

雷震は弾けるように笑った。

 

 

「それを描いたなア、俺だ」

 

 

「え!?」

 

 

国芳は飛び上がった。

 

 

「ほんに、じいさんがこれを描いたのかよ!?」

 

 

「ああ、シーボルトが次回江戸に来る時に渡すように頼まれてな。異国の絵を真似て描くなア、これほど愉快な事アねえぜ」

 

 

「すげえ。じいさんはまるで司馬江漢、いや、それ以上だ・・・・・・!」

 

司馬江漢は江戸を代表する洋風画家の一人である。国芳は膝を叩いて感心し、改めて一枚一枚を手に取った。

 

 

「なあ、国芳」

 

 

すげえ、すげえと繰り返す国芳を雷震は呼んだ。

 

 

「てめえ、これからの浮世絵をどう思う」

 

「ええっ?浮世絵?」

 

「テメエが描いてるもんだ。何でもいい、言ってみろ」

 

わっちゃア、と国芳は少し考えてから、口を開いた。

 

 

「わっちゃア浮世絵が大好きだ。浮世絵師を辞めるつもりもねえ。だが、焦りもある。今のままでいいのかって。今まで誰も描いた事のねえような面白え浮世絵を作らねえと、こういう異国の浮世絵師に吞み込まれちまうんじゃねえのかって」

 

 

雷震はプッと噴き出した。国芳が異国の絵描きの事も浮世絵師、と言ったのが可愛く思えたのだろう。

 

 

「そうだ。その通りだ。ようやくそうした目を持った奴が現れた」

 

 

「はあ」

 

 

「若え野郎は何かにつけてはやれ豊国だ国貞だ広重だ、そんなところを目指してちゃア、この国の浮世絵はやがて滅びちまう」

 

 

国芳はさりげなく歌川派を馬鹿にされた気がして少し青ざめた。しかし、目の前の精緻な西洋画を見るにつけ、雷震が言う事があながち嘘ではないのも分かる。雷震は構う事なく、続ける。

 

 

「俺達が目指すなア、もちろん分かってんだろう。なあ、国芳」

 

 

「異国の絵・・・・・・?」

 

 

そう言った国芳の目ははるか遠くを見据え、青みがかって見えるほどに澄んで輝いた。

 

 

「そうだ、そうとも」

 

 

雷震は手を打って喜んだ。

 

 

「しかも、ただ目指すだけじゃあつまらねえ。こいつを」、

 

 

と言って雷震は旧友と肩を組むように親しげに、その西洋画を指した。

 

 

「超えなきゃならねえ」。

 

 

「超える」・・・・・・

 

 

「そうだよ、国芳。真似るだけじゃ駄目だ。超えなけりゃア、な」

 

 

この老人は、自分が描き上げた精巧な西洋画にも満足していないらしかった。この雷震という素性の知れぬ絵師に宿る崇高な精神を思う時、世辞にも綺麗とは言い難い無精髭の面が、急に神々しく国芳の目に映り、不思議なほど大きな感動を覚えた。

 

 

「国芳、てめえにならどうもそれができる気がする」

 

 

「わっちに?」

 

 

「そう。わっちに、だ。ナアニ、できねえこたアねえ。人は思い立った瞬間から、何にでもなれらア。ちなみに俺の話だが、俺ア必ず百まで生きる。その頃には俺アとうに、この異国の浮世絵師を超えちまってるだろう」

 

 

 

「なあ、善」

 

 

雷震は、脇の英泉に話を振った。

 

 

「この国芳の野郎を、《ふらふら》だとてめえは言ったな」

 

 

「ああ、言いましたよ」

 

 

英泉は気だるげに答えた。国芳と雷震が語っている内容も、よその話、といった風情で素知らぬふりを決め込み、勝手に煙草盆を引き寄せて、一人でふかしている。

 

 

「俺の見たところこいつア、《ふらふら》じゃアねえ、《ひらひら》だな」

 

 

「《ひらひら》?」

 

 

英泉は雁首をこつんと叩いて、気のない顔をしてみせた。眉と眉の間がどうにも間の抜けた顔である。

 

 

「ああ。こいつアきっと、浮世絵と異国の絵の垣根をひらりと超えてゆく人間だ。だから、《ひらひら》」。

 

 

「そりゃアまた、随分と買いかぶりやしたねえ。あーしの事ア一度もそんなふうに言ってくれたこたアねえのに」

 

 

「おめえはどうせ、異国の絵なんざ目もくれねえだろ。どうも奇妙な情念というか、劣情が大きすぎる。その調子で恨みがましい女を描き続ければ生涯安泰だ」

 

 

「そりゃどうも」

 

 

英泉はべーっと舌を出した。

 

 

「《ひらひら》かあ」、

 

 

国芳はアハハッ、と明るく笑った。

 

 

「悪くねえなア、ああ。全然悪くねえ」。・・・・・・

 

 

ありがとうよ、じいさん。涼やかに笑いかけた国芳を見て、

 

 

「まったく、てめえみてえな野郎にお猶(なお)を嫁がせてえと思うよ」

 

 

ふと雷震がそんなことを言った。

 

 

「お猶って?」

 

 

「鉄さんの一番下の娘さんさ」

 

 

英泉が補足した。雷震は頷いて、

 

 

「あいつア、生まれつき目が見えなくてね。でも、てめえならきっと飽きさせねえだろう」

 

 

「歳は?」

 

 

「九つ」

 

ハッ、と国芳は膝を打って笑った。

 

 

「じいさん、わっちゃアもう三十路になろうってんだぜ?」

 

光源氏じゃアあるめえしと国芳が笑うと、

 

 

「死んじまったよ、去年の秋に」・・・・・・。

 

・・・・・・

 

 

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