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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

昏い雷震の声に、一瞬の間が開いた。

 

 

「そ、それア・・・・・・」

 

国芳は二の句が継げずに口をパクパクさせた。

 

 

「鉄さんは、ご傷心で旅に出て、今年戻ってきたばっかりなのさ」

 

 

英泉は俯いて表情を見せずにそう言った。

 

 

「なあに、あいつの火の魂ア俺が全部食らっちまったのさ。俺アお猶の分まで生きる。さっき言ったろう。生きて生きて、百まで生きて、誰も見た事のない物を描きあげてやらア」

 

 

顔を歪めて苦しげに笑った雷震の顔には、娘の死を何とか理解しようとした父の哀惜と苦悩と、強い意志が深い皺となり刻み込まれていた。

 

 

「さア、国芳。俺の倅にゃなれねえと分かったら、もう帰りゃがれ。どこへでもひらひら飛んでゆけ。異国の浮世絵師ィ超えるまで、絶対会いに来るんじゃねえぞ!」

 

 

あ、と雷震は付け加えた。

 

 

「この絵はもらっとく。気に入った」

 

 

英泉が持ってきた国芳の絵数枚を、買うという。雷震は国芳に、ゴミの山から引っ張り出した九六銭を投げつけた。

 

 

「気に入ったわりに、しょっぺえなア」

 

 

英泉が口を挟むと、

 

 

「うるせえ、これでも精一杯だ」

 

 

「じいさん」、

 

 

国芳は銭を受け取り、にっこりした。

 

 

「ありがとう。わっちゃア、一生懸命描くよ」。

 

 

 

 

おう、と答えた雷震の間抜けた顔が、何故か国芳の胸に残った。

 

・・・・・・

 

 

「それにしてもよ、」

 

 

帰り道、ぽつぽつと歩きながら、国芳はそう言って首をひねった。

 

 

「雷震のじいさん、名を五両で売ったって言っていたが、そんな高く売れるなんざ、前はなんてえ名だったんだ」

 

 

「『北斎』さ」

 

 

「え」

 

 

国芳が、提げていた銭差しを地面に落とした。

 

 

「ほ、北斎い!?」

 

 

「ああ。あーしの師匠の一人だ。知ってるか」

 

 

「知ってるも何も、知らねえ奴なんざ居るのか!?北斎は昔ッからわっちの心の師匠だぜ!?」

 

 

昔、一度だけ北斎の姿を見に行った事もある。

 

文化十四年に北斎が合羽干場の寺の境内で百二十畳の巨大な馬の絵を描くという派手な見世物を行った時、国芳は兄弟子の国直に連れられてこっそり火の見櫓の上から隠れ見た。あの時の感動は、今の国芳の原動力と言ってもいい。

 

 

「参ったなア、あのじいさんが、北斎かえ!?参ったなア!」・・・・・・

 

 

国芳は慌ててしゃがみ、地面の銭差しを拾った。その手が震えている。もとはと言えば英泉が「もう一人の《ふらふら》に会わせる」などと言ったから、てっきり同い年くらいのうだつの上がらない絵師に会わされるものと思って何の思案もなく付いてきたのだ。それが、長年憧れ続けてきた北斎と会う事になるとは。もっといい服を着てゆけばよかった、と考えてから、北斎はもっとひどい恰好だった事を思い直す。

 

 

 

 

「なに、そんなに好きだったか。初めに教えときゃアよかったな」

 

 

英泉は予想以上に取り乱した国芳を見て、申し訳なさそうに言った。

 

 

「北斎の師匠はわっちの事オひどく買いかぶってくれはしたが、期待に沿えずにひらひらどこかに飛んで行って、そこらへんの木にでも引っかかっちまったらどうしよう」

 

 

国芳は急に弱気な事を言った。北斎と約束したものの、依然として大した仕事もないのが現状だ。

 

 

「なあに、あーたは売れるよ」。・・・・・・

 

 

「え?」

 

英泉の意外な一言に、思わず国芳は首をひねった。

 

 

「鉄さんは滅多に弟子の名前なんて覚えねえ。だが、さっき師匠はあーたの事を、自分から『国芳』と呼んだ。鉄さんが名前を覚えた奴ア、よほど見所のある奴に決まってらア。あーたは、かならず売れるよ」、

 

 

それに、と英泉は付け加えた。

 

 

「それに、そういう奴じゃなきゃ、あーしがあの『北斎』に会わせたりしねえよ」。

 

 

「英泉師匠」・・・・・・

 

 

「憧れの北斎」に図らずしも会ってしまった国芳は、気持ちが落ち着くまで友人の佐吉の居る家に真っ直ぐ帰る気になれず、少し足を伸ばして英泉と二人で隅田川沿いの百本杭の辺りを歩いた。

 

「綺麗エだねエ」

 

英泉が珍しく素直に感嘆した。

 

燃えるような夕焼けが隅田川に落ちて、川面は心を映す水鏡のように紫や橙、混ざり合った様々の絶妙な色合いに揺れていた。

その中を一艘の猪木の黒い影が、すいとなめらかにその色彩を切り裂きながら水面を進むのがひどく美しくて、国芳は何だか泣きたいような気持ちになった。

 

(あの北斎が、わっちを、褒めてくれた)・・・・・・。

 

少し前まであり得る筈もなかった出来事が、現実に起こった。

自分の手の届かないところで、運命の輪が廻り始めているのかもしれない。

そんな気がした。

その夕焼けを、国芳は目に焼き付けるようにいつまでもいつまでも、見つめていた。

 

小林清親 向島百本杭の夕焼 JAODBより

 

 

 

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