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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第28話:3ページ目
「本当に、あの渓斎英泉か!?」
「ちょいとあーた、声が大きいよ」
善と呼ばれた男はケケケッと奇妙な笑い声を立て、どれ、と足で土の上にさらさらと絵を描いた。土の上に描かれたのは、いかにも英泉の美人画そのものであった。本物だと分かるや否や、国芳は玉の汗の散るほど思い切り頭を下げた。
「いつもお世話になっていやす!」
「いつ世話をした。あーしゃア、あーたを世話した覚えアねえぜ」
英泉が国芳の顔をまじまじと覗いて首をかしげた。
国芳はその首っ玉にかじり付きそうな勢いで、
「世話になるもならねえも、わっちゃア『絵本三世相(えほんさんぜそう)』からこの方、師匠の艶本(つやぼん)全部持ってまさア!」
子供もしないようなきらきらした目で英泉に迫った。
国芳が興奮するのも無理はない。英泉の真骨頂は艶本であった。寛政の改革のほとぼりが冷めた頃から、それまでの反動のように、英泉は描いた。春画、黄表紙、それを合わせた合巻。英泉は一人で文を書き挿絵を添えてまで、寛政期に松平定信によって禁じられたそれらを作り続けた。人の色を好むは、何者にも止められはしない。例え相手が公儀であったとしても。そう信じて描き続けた英泉の濃艶な春画や好色本は、国芳をはじめとする色盛りの青少年たちには宝のように輝いて見えた。国芳はなおも語る。
「『恋の操(こいのあやつり)』はとても良かった!あの時わっちゃア血気盛りの二十歳前で、擦り切れるほど読みました。でもやっぱり『春野薄雪(はるのうすゆき)』はいっち良い。大田南畝先生の文も良けりゃア英泉師匠の絵も傑作ときた。一人の男に良い女が四人も乱れ狂う花清宮の絵なんざ、下手くそなりに綺麗に写して壁に飾ったもんです。アアそれから、『閨中紀聞枕文庫』は・・・・・・」
「分かった分かった。あーたも、けしからねえ好き者という事アよっく分かった。そんなら、あーしの為と思ってあーしにこの女を買わせちゃくれねえか」
「でも、そのお隣にいる花魁は英泉師匠の馴染みじゃありやせんか」
「それが違うのさ」
英泉が隣に連れていた女の頬を撫ぜながら言った。
「この朝霞は、あくまで絵師としての付き合いよ。あーしゃア朝霞を含め吉原女郎を抱いたためしアねえ。他の男に抱かれる姿を、ひたすら描くのよ」
ふふふ、と朝霞花魁が陰翳のある微笑みをした。
「ならなんで、おみつの馴染みになろうなんざ・・・・・・」
「見た瞬間とぉんと来たからさ。どうだい、手ぬぐいを吹き流しにかぶったこの姿は最高じゃねえか。吉原女郎なのに綺羅で飾らず、まるで素人(じもの)みてえだ。惚れたぜ。あーしゃアこの人の馴染みになる。金なら余ってるよ。ちょうど来月一日は八朔だから、盛大にやろう。豪勢な白無垢を用意して、道中の話もつけてやろう。悪りい話じゃねえだろう。なあ」
「それは・・・・・・」
みつは言葉に詰まった。
確かに、八月一日の八朔の日には吉原女郎たちは皆白い着物に身を包み、花嫁のような格好で馴染みの旦那と過ごす。
白無垢を用意するのには法外な金が必要で、みつはまだ当日の客が決まっていなかった。
「ちょいと待ちねえ」
困り果てたみつを見て、英泉を制したのは国芳である。
「確かにわっちゃア素寒貧だ。手前一人じゃ惚れた女に白無垢も花も用意してやれねえ。だが、そう物乞いに服を恵むような英泉師匠の言い方ア気に食わねえ。この女ア京町一丁目岡本屋の花魁だ。わっちのために服も地味にしてくれる、とんでもねえ好い女だ。師匠のような人にゃア渡せねえ」
「分かった。互いに譲れねえのなら、勝負で八朔の相方を決めようじゃねえか」
渓斎英泉はケケケッと奇妙な高笑いを立てた。
「勝負?」
「ああ、絵の勝負さ。日にちは八朔当日だ。それまでに作品を仕上げ、当日に吉原の客の話題を攫った方がこの花魁の相方になる。あーしが勝てば、白無垢の花魁はあーしのもんだ。あーたが勝てば、あーしの金であーたを一夜の花嫁の婿にしてやらア」
国芳は拳を固く握りしめた。なんといっても、相手は人気絵師の渓斎英泉である。
いくらなんでも敵わねえ、そう思った矢先、
「国芳はん、その勝負、受けて」。
凛と声を張ったのはみつだった。
「八朔が近いというのに旦那が決まっていないのは誰でもない、あたしの身の詰まり。だから、この勝負受けて欲しいの。でも、一つだけ約束して」、
「絶対に、負けないで」。
「みつ・・・・・・」
「国芳はんなら、大丈夫よ。絶対に」
国芳は、固く頷いた。
「分かりやした。英泉師匠、その勝負受けやしょう」
「よし、決まりだ。あーた、クニヨシってえのかい?聞かねえ名だが、何を描くんだい。美人画かい」
「うんにゃ、美人画ア兄弟子にめっぽう得意なのがおりやす」
「ほう」
「それが国貞っつう狐みてえな奴でして・・・・・・」
「クニサダって、あのクニサダか?」
英泉がその名前に反応した。そしてその名を口にする時に一瞬ぴくりと眉を顰めたのを、国芳は見逃さなかった。
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